仙台スポーツ
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Interview

FENCING

研究の世界から日本の競技力向上を目指す、気仙沼が産んだメダリスト 千田健太【前編】

※ご本人提供

 普段は寡黙で大人しい、そして何より礼儀正しいのが印象的で、ふと通りすぎると、それが世界のトップで戦い続けたアスリートだと気付かないこともあるかもしれない。しかしこれまで静かな背中を通して宮城に対し世界を見せ、感動を与えてきた。復興五輪と銘打たれている今回の東京オリンピック・パラリンピックを語る時に、避けては通れない男がいる。ロンドンオリンピックフェンシング男子団体銀メダリストの千田健太だ。

 東日本大震災が起こったとき、千田自身は遠征でドイツにいた。帰国後、変わり果てた地元の姿に愕然としながらも、周囲の人からの後押しを受け練習に励み、前述の通り銀メダルを地元に持ち帰る。2度目の東京オリンピック・パラリンピックの招致にもアスリートとして尽力、2013年9月のIOC総会ではブエノスアイレスで東京招致決定の歓喜の瞬間を体験した。当時のIOC会長であるジャック・ロゲが「トーキョー」と招致決定を伝えるシーン、テレビに映し出された日本招致委員会一団の歓喜の瞬間を覚えている人も多いのではないか。

 千田自身は2016年の岩手国体を最後に現役を引退。その後はオリンピック銀メダリストとして様々な立場で現役アスリートの支援や子どもたちの育成に尽力しながら、現在は慶應大学大学院で博士号取得を目指すなど、日本のスポーツの発展のために日々努力している。元アスリートが現役引退後に博士号や弁護士などの資格を取得しスポーツ界発展のために活躍する姿は海外でこそよく見かけるが、日本ではまだまだメジャーとは言えず、初代スポーツ庁長官の鈴木大地や2代目スポーツ庁長官の室伏広治など数少ない。千田が博士号を手にするのはもう少し先のことであるが、近い将来、日本のスポーツ界を背負って立つ存在になっていることを期待せずにはいられない。

 今回のインタビューでは、千田自身がフェンシングから得たもの、オリンピックについて思うことなどを、近況を交えながら聞いてきた。新型コロナウイルスの影響により史上初めての延期、改めて大会半年前となった今、世界を見てきた男は地元宮城に対し何を語るのか。

良い指導者たちに恵まれた、宮城のフェンシングシーン

「オリンピックメダリストと聞いて、幼少期からフェンシングの英才教育を受けていたと思う人もいるかもしれません。特に私の場合は父(注:千田健一氏、日本がボイコットした幻のモスクワオリンピック代表)の存在もあるからなおさらです。でも実は小学生の頃まではいろいろなスポーツをしていて、特にサッカーでは本気でJリーガーを目指していました。それでも中学校1年の時に地元のフェンシングクラブに行ってみると、指導者がとても良い人たちでした。褒めて伸ばすタイプの指導スタイルで、選手たちも伸び伸びとプレーしていました。叱られてプレーするのではなく、好きだから練習してうまくなるという体験ができたのは、その後の競技人生においても大きく影響したと思います。気仙沼を始め、宮城県には今でも暖かい指導スタイルのフェンシング文化が根付いています。

 フェンシングを始めた頃に憧れていた選手はシドニーオリンピック日本代表の岡崎直人選手です。身長がちょうど自分と同じ170cmで、海外の選手と対峙するととても小柄な選手なのですが、間合いをうまく取り、海外の選手を翻弄していたのが印象的です。フェンシングでは一般的に体が大きくリーチが長い選手が有利とされていますが、岡崎選手は対戦相手を徐々に追い詰めて逃げられないようにして攻撃したり、逆に相手が攻撃してきて戻りが遅れたところをカウンターで攻撃するなど、自分のスタイルを持っていました。フェンシングはとても奥が深くて面白い競技なんだと思ってプレーをみていましたね。

 中学校から始めたフェンシングですが、高校3年のインターハイでは3位の成績を残しました。競技開始年齢は決して早くありませんでしたが、工夫して努力することで、徐々に力をつけていくことができたと思います。現在は全国各地で将来性のあるアスリートを発掘し育成する事業が行われていますが、始めるのが遅くても自分に合った競技を見つけて一気に伸びることもあります。今の子どもたちにはぜひ色々なスポーツにチャレンジしてほしいと思っています。」

遅咲きながら階段を駆け上った競技人生

「高校卒業後は中央大学に進学しフェンシングを続けました。在学中にワールドカップ東京大会で銅メダルを獲得し、ようやく世界で活躍できる手応えを手にしました。しかし2008年の北京オリンピックでは個人11位という成績で悔しさが残りました。オリンピックに出場するまでは「オリンピックに出場できた」ということでも少し満足感がありましたが、いざ大会を終えてみると、改めてオリンピックはメダルをかけて戦う場なんだと感じました。

 しかし当時は今ほどアスリートのプロ化が進んでいません。大学卒業後にどうやって競技を続けて行こうか逡巡しました。体育の教員になって学校で教えながら競技を続けることも検討しましたが、幸いにもサポートをいただける企業があり、2012年のロンドン大会に向けてフェンシングに打ち込むことができました。2010年の世界選手権パリ大会で団体で銅メダルを獲得し、成長を実感した、選手として充実した期間でもありました。」(続く)

安藤悠太
安藤悠太

東京大学文学部卒業、早稲田大学スポーツ科学学術院修士課程修了(優秀論文賞受賞)、フランスレンヌ政治学院欧州政治コース修了。学生の頃よりフリーのライターとして活動開始。ニュース記事やコラム、インタビュー記事の編集・執筆から海外での学術書執筆まで幅広く対応。国立のスポーツ機関で10年ほど国内トップアスリートの支援や草の根レベルのスポーツ支援に従事。現在は愛してやまないスポーツの新メディア立ち上げに関わることができ幸せです。宮城のスポーツシーンが盛り上がるよう、東京から記事を届けます。