
仙台にも豊かなサッカー文化を。緑の絨毯の守り人【前編】
Interview
FOOTBALL
※写真:チームより提供
2020シーズンで現役引退したマイナビベガルタ仙台レディースの小野瞳選手。今から10年前の2011年3月11日。早稲田大学から東京電力女子サッカー部TEPCOマリーゼへと入団した直後に、東日本大震災が発生。小野選手の運命は大きく変わっていきました。
―マリーゼの一員として、なでしこリーグの選手として、いよいよこれからというタイミングで、東日本大震災が発生しました。
「チームの宮崎キャンプ中に被災し、その後はしばらく自宅待機になりました。しかし、私は地元の松島にすぐに帰ることができませんでした。大学時代の友人の家に2週間くらい居候をしました。(チームの寮がある)福島に荷物や車を取りに行けたのもかなり遅かったですね」
―なかなかサッカーもできない中で、どんな風に過ごしていたのですか?
「本来だとマリーゼでサッカーをしながら東京電力の福島の支店に勤務するはずだったんですが、それもできない状況で、東京支店に配属が決まりました。銀座支社の料金グループで、普通にOLをしていました」
東京で仕事をしながら、常に気になっていたのは愛する故郷・宮城のこと。帰省した時にその変わり果てた姿に言葉を失いました。
「親戚が(奥松島の)宮戸島に住んでいて、家が流されてしまった。見慣れた景色が散々な状態だったことは覚えています」
※チームより提供
―ベガルタ仙台レディースが発足し、マリーゼの選手たちを引き受けると知らせが届いたのは2011年秋。その一を聞いてどのように感じましたか?
「移管先については、マリーゼのチームメートで集まって話を聞きました。私はもう『仙台でサッカーができるなら迷わず行きます!』という気持ちでした。悩んでいる選手は、正木(裕史)さん(現浦和レッズレディースコーチ)が声をかけ誘っていたみたいですね。そして最初の18人が集まったんだと思います」
―チームの移管先が「ベガルタ仙台」と聞いて、どう思いましたか。
「信じられなかったですね。『噓でしょ?』って。地元じゃん!って思いました」
マリーゼからのメンバーに移籍やトライアウトを経て加入したメンバーを加えて、「ベガルタ仙台レディース」の22人で戦った2012年。この年は2部にあたるチャレンジリーグを20勝2分と無敗で優勝し、なでしこリーグに昇格を決めました。
―最も心に残る思い出はどんなことですか?
「ひとつに絞るのが難しいですが、2012年のホーム開幕戦、常盤木学園戦が印象に残っています。小さい頃からユアテックスタジアム仙台に、ブランメル仙台やベガルタ仙台の応援に行っていました。まさかそこで、なでしこリーグという女子サッカーのトップリーグの試合をできるということ。そして改めてサッカーができる環境を作っていただいたこと。『サッカーを続けてくれてありがとう』というメッセージをいただいたこと。一生忘れられない場面です」
小野選手を含むほとんどの選手が、協力企業で日中仕事をしながら、夕方から練習に打ち込みました。その職場は多様で、小売店で店頭に立つ選手もいれば、事務作業に従事する選手もいました。小野選手が勤務したのは、なんと放送局。tbc東北放送のテレビ制作部に配属され、人気番組「ウォッチン!みやぎ」のディレクターとして活躍しました。
※写真:ご本人提供
―tbc東北放送での仕事はいかがでしたか?
「本当に鍛えられましたね。なかなか経験できない仕事でした。番組を作る上で、撮る側、撮られる側それぞれの世界を見られました。それで自分が選手としてインタビューを受ける時も意識できることが多くありましたね。編集で切るための間とか(笑)ゆっくり喋ることもそうですね」
―会社の方々にも愛されましたね。
「23歳で会社に入って9年間勤めて、年は重ねているはずなんですけどね。いつまでも可愛がってもらいました。職場の方は本当に試合もたくさん見に来てくれました」
試合日のスタジアムには、会社の仲間で制作した「小野瞳」の名前が入った横断幕を掲げられていました。9年間、小野選手の活躍を家族のように喜んで後押しする、温かい職場の仲間の支えがありました。
―宮城で9年間プレーして、このマイナビベガルタで引退を決めました。
「地元でプレーができるなんて、そんな幸せなことないじゃん!って思いました。9年間で他チームへの移籍を考えたこともないですね。仲の良い選手も多くいて、同い年の選手も常に5人位いましたしね」
―マイナビベガルタは選手が移籍したり引退したりとメンバーが変わっても、新しい選手がすぐにチームになじむ雰囲気がありましたね。
「それはベガルタ以前の、マリーゼのチームの雰囲気なんだと思います。仲が良いだけではなく、プレーでは厳しく要求し合うという関係性がありました。それがずっと残っているということなのかな。見えない絆のようなものがずっとあるんですよね。普段もずっと一緒にいるわけではないですけど、気持ちはつながっているような……。ずっとそんな感じでやってきました」
―他のチームから来た選手がベガルタの色に染まる、なじむというところで小野選手が果たした役割は大きいのでは。
「ここに来た選手が仙台を好きになってくれるんですよ。良いチームだって言ってくれます。みんなピュアです(笑)宮城に来て、被災地訪問をして感じることもあるでしょうし、そこで『被災地のためにプレーする』いう思いを共有できていると思います」
毎年、シーズンの初めには、県内の被災地を訪れ、東日本大震災の歴史を心に刻む選手たち。その中で昨年は、小野選手らマリーゼ時代からの選手たちが、自らの経験を仲間たちへ伝えるという特別な時間を設けました。
―東日本大震災があってチームが生まれたという歴史を互いに理解し合っていることも大きいですね。
「形があるものではないけれど、それをみんなが分かっている。このチームができた時の思いや使命を背負う意識はみんなの中にあるのかなと思いますね」
―「マイナビ仙台レディースへと」チームは生まれ変わりますが、チームは引き続き仙台で戦っていきます。小野さんの立場から、選手たちに願うことはどんなことですか?
「このチームは仙台に在りますし、選手たちの多くが引き続き仙台でプレーすると決めたということは強い意志があると思います。WEリーグでプロのサッカー選手として新しい世界が待っていると思うのですが、このチームがあるということとサッカーができる、プロ契約であるということは当たり前ではない。サポーターの皆さんあってこそのチームだと思う。ベガルタ仙台レディースとしての9年間があったから、今があるという思いをつないで欲しいです」
―仙台、宮城からサッカー選手を夢見る女の子たち。「第二の小野瞳」が出てくるかもしれませんね。
「地元出身で活躍すると考えると、佐々木美和(仙台市出身。現ノジマステラ神奈川相模原。2014年から5シーズン仙台で活躍)がいた頃は、ちょっとそういう気持ちになりましたね。いつか仙台に戻ってきて欲しいという気持ちもあります。サッカーをする小さい子たちには『自分も選手になれるかも』と思って欲しい。選手をしていた私がそういう存在であれたら嬉しいなって思います」
※チームより提供
―改めて、どんな9年間でしたか。
「楽しかったです、本当に。苦しいことはたくさんありましたけど、それ以上に楽しかったです。その時々で、出会う人に幅を広げてもらいましたね。振り返るとこの9年間だけではなく、小学校、中学校、高校、大学と出会う指導者の方のおかげで、先に道をつないで頂いて今があるように思います。それぞれの場面で『サッカー人生の寿命を延ばしてもらった』ような感覚です。ここまで続けられるとは思っていなかったです。本当は28歳で結婚して(サッカーを)辞める人生計画だったんですけどね(笑)」
―選手になってからも、進化し続けたからこそ長くプレーできたのではないですか?
「特に2019年から2年間、辛島啓珠監督にボランチで起用してもらってから、サッカー選手としての時間を延ばしてもらったと思います。そのことに本当に感謝しています。(入団当初のポジションである)FWのままだったら、もう少し早く辞めていたかもしれませんね」
―10代、20代はサッカーにささげた青春。そして今、小野さんは32歳です。30代のこれからはどんな人生を歩んでいきたいですか。
「今は、これから向かう第二の人生がキラキラしているように感じます。すごく楽しみですね。サッカー漬けの20数年だったので、もう練習しなくていいんだ(笑)って。サッカーを楽しむことができたように、30代は違う人生を楽しみたいです。自分に何ができるかわかりませんが、楽しみです」
※チームより提供
1月17日、小野さんがWEリーグ「マイナビ仙台レディース」のフロントスタッフに就任することが発表されました。「チーム創設にご尽力いただいた方々や地域へ恩返しをしていきます。ピッチで躍動する選手とサポーターのみなさまに寄り添い、これからも一緒に歩んでいきたいと思っています」とコメントし、新しい人生に挑んでいきます。これまで選手として積み重ねた努力や放送局での経験も次のステップで生かされることでしょう。小野さんらしく朗らかに、仲間に愛し愛される日々はこれからも続いていきます。
フリーアナウンサー、スポーツキャスター。2004年からラジオでベガルタ仙台のトーク番組を担当し、2007年よりスカパー!や DAZNで中継リポーターを務める。ベガルタ仙台レディースは2012年のチーム発足時より取材を開始。ヒーローインタビューと勝利の祝杯を何より楽しみにしている。