仙台スポーツ
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Interview

FOOTBALL

地元宮城でサッカーができた喜び。愛し愛されたサッカー選手・小野瞳さんの歩み【前編】

※写真:チームより提供

男の子と一緒にボールを蹴り始めた日。ミスターベガルタへの憧れ

 マイナビベガルタ仙台レディースで活躍し、2020年に惜しまれながら現役のサッカー選手を引退した小野瞳さん。FWやMFとしてプレーし、その高い技術でファンを魅了しました。宮城県松島町出身、地元宮城のチームでサッカーができる喜びを表現し続けた9年間でした。サッカー人生を振り返って今感じること、東日本大震災を乗り越えてサッカーを続けてきた思いを伺いました。(全2回)

 

―昨年11月に引退発表しました。その後もリーグ戦や皇后杯の試合がありましたが、どんな気持ちで過ごしていましたか。

「引退を決め、早く発表したことでチームメートとの残りの時間を噛みしめることができました。皇后杯が始まるというタイミングに『あと一か月だね』という話をしていました。でも万が一、結果によっては(敗退してしまうと)早くその期間がすぐに終わってしまうこともある。時間は、本当にあっという間なんだなと思っていました」

―引退を発表して、周りの反応はいかがでしたか?

「『お疲れ様でした』という声や『まだ(選手としてのプレーを)見たかったな』『まだできたんじゃない?』と言って頂きましたね。私が『十分やって来られました』と伝えると『よく頑張ったね』と労って頂きました」

―選手として「十分やって来られた」と言い切れるというのは素晴らしいことですね。

「そうですね。自分で辞める時を決められたのは幸せだなと思います」

小野瞳

※チームより提供

―地元・宮城で女子としてのトップリーグ(2020年時点)の「なでしこリーグ」で現役を終えられる選手というのは本当に少ないのではないですか。

「そうですね。ずっと(ベガルタ仙台OBの)千葉直樹さんを見てきました。千葉さんはブランメル仙台からベガルタ仙台で活躍して『ミスターベガルタ』と呼ばれていました。私はその『女子版』『ベガルタレディース版』になれたらいいなと思って続けてきました。ずっと地元一筋でプレーする姿が憧れで、いいなぁと思っていて……。引退して、今やっと実感しますね。自分もそんな風にやって来られたんだなって」

―地元でプレーしている実感はどんな時に湧きますか。

「一番は、試合の日にスタジアムに家族や親せきが集結することですね(笑)他にも、地元で中学・高校と一緒に戦った仲間が来てくれたり、小学校の時の担任の先生が見て下さっていたんです。その先生には電話で引退の挨拶もさせてもらいました。『とても楽しませてもらったよ』と言って頂けましたね」

 小野さんのサッカー人生のスタートは、小学校2年生の時。地元のスポーツ少年団「松島SC Jr」(現在の「マリソル松島」)に入ったことが全ての始まりでした。入団のきっかけは小学校の同級生の誘いだったといいます。

小野瞳

※ご本人提供

「『俺ら、スポ少入ってるけど、瞳も来る?』って誘ってもらいました。男の子だらけだったんですけど、みんな、お互いに女の子の名前を付けて遊びながらプレーしていました(笑)『しょうた』だったら『しょうこ~』って呼んでパスをしたり。面白くて温かい雰囲気があったんです。『あ、私のことを受け入れてくれてるんだな』って感じました。それが楽しくて、スポ少に入りました。女の子は私一人。5~6年生くらいの時に後輩の子が一人入ってきましたけど、それまでは女の子は他にいなかったですね」

―女子がほとんどいない中でしたが、中学校でもサッカーを続けたのですね。

「当時は松島中学校のサッカー部と『ビッキー泉・仙台』という女子クラブチームを掛け持ちしていました。ビッキーに行っていた頃に、スポ少時代の監督が聖和学園高校の監督と知り合いでつながりがあったんです。その縁で、中学時代に聖和学園の練習に参加させてもらいました。『どうしても入りたいな』と。それが聖和を目指すきっかけになりました」

―聖和学園のサッカーというと、テクニックがあるというイメージがあります。

「そうですね。ボールをつなぐという技術が高いチームです。高校では技術を磨いて、その技術を生かした判断をも磨いた時期でした。実はその技術は、中学校の時のトレーニングが土台となっています。顧問の先生が静岡学園高校でキャプテンをされていた方だったんです。静学のテクニックをまとめたDVDを見せてもらい、主にドリブルやリフティングを教え込まれて……。そういう経験が大きかったですね。一緒にやっていた仲間はみんなうまかったです。リフティングもドリブルもすごかったですね。それがあって、聖和学園に行ってからも1年生から試合に出続けることができたと思います。先輩方もいた中で、高い技術を磨くことができたのはそのベースがあったからですね」

―高校卒業後は、早稲田大学に進学し「ア式蹴球部女子部」に入部しました。

「早稲田は自己推薦という形で、書類審査、面接と小論文で受験をしました。大学に入った頃は、私はガリガリでとにかく細くて体力がなかったんです。全く話にならなくて……。それでも監督は試合に使ってくれました。同期にマリーゼ、ベガルタ仙台レディースにも所属した小山季絵(2014年に現役引退)がいました。先輩には佐藤衣里子さんという日本代表にも選ばれた方がいて、目指す基準がとにかく高かった。みんなレベルが高かったので楽しかったですね」

小野瞳

※ご本人提供

―楽しかった大学時代で、最も心に残る思い出は?

「インカレ(全日本大学女子サッカー選手権大会)で、自分たちの代で優勝できたことです。3年生で優勝し、4年生の時には2連覇。強かったです。ジェフLの大滝麻未もいました。とにかく上手な人が多かったので、大学でのサッカーは楽しいという感覚しかなかったです。伸び伸びと好きなようにプレーして、でもみんな上手だから合わせるのが楽しかったです。私はトップ下やサイドでもプレーしました」

―随所に高いテクニックが盛り込まれているからこそ、「小野選手のプレーが見たい」というファンや仲間も多かったのではないですか?

「そんなでもないです(笑)でも私のプレーする上での目標は、『喜んでもらいたい』ということでした。私がプレーすることで喜んでくれるならと続けてきました」

―小野さんがプレーする時には、その先に「伝えたい相手」がいたように感じました。

「なんとなくですけど、そういう意識があるのは大学からですね。大学でいろんなバックグラウンドを持つ人と出会って、入学してきた方法や経緯もみんな違いました。でもみんなサッカーが好きで試合に出たいという思いがあって、話をしていると一人一人に寄り添いたくなるというか。悩んでいる人がいたら話を聞いて、頑張ろうと思ってもらおうとか……。みんな伸び伸びとやって欲しいと思っていて、それは私が伸び伸び生きているからなんですけど。そういう役割や考え方が自分に合うのかなって」

 

みんなを生かすのが私の仕事

 大学時代に培われた「仲間の思いを汲む力」は、なでしこリーグでも存分に発揮されました。練習時に元気がない選手を見つけると、小野選手はさりげなく近寄り、その声に耳を傾けていました。「ひとちゃん(小野さんの愛称)の怒ったところを見たことがない」とチームメートは口々に言います。その温厚な人柄で先輩に大切にされ、後輩にも慕われてきました。

小野瞳

「マイナビベガルタはレベルが高くて、若い選手も必ず壁にぶつかるんです。なので、必ずしも同じ体験をしたわけではないですけど、その苦しみをわかってあげられたら、と。もがいている選手が何かを見つけるきっかけになりたいとずっと思っていました」

―その優しさの分、FWの位置でプレーしていても「自分が!」というエゴを感じないというか……。

「それ、いろんな人にすごく言われましたよ。『もっと自分を出して』って。私はこういう人間なので、エゴを出すのが自分という訳ではないと思います。みんなを生かすのが私の仕事。そして私も生かしてもらっているという感覚ですね」

―そして大学卒業後に、東京電力女子サッカー部TEPCOマリーゼに入団します。

「縁があれば卒業後もサッカーをやろうかなと思っていたのですが、同時に就職活動もしていました。サッカーをやるなら地元に近いマリーゼがいい。そうでなければやらないかなと考えていました。マリーゼには4年生の夏頃に練習参加することになって、それがきっかけで入団しました。2011年入団の同期は4人。大学で一緒だった小山、浜田遥(マイナビ)、斎藤あかね(元ちふれASエルフェン埼玉)、私でしたね」

 入団会見では意気揚々とマリーゼブルーのユニフォームに身を包みましたが、実際にそのユニフォームを着て公式戦のピッチに立つことはできませんでした。2011年3月11日、なでしこリーグの開幕控えた宮崎でのキャンプ中に、東日本大震災が発生したのです。マリーゼが休部を余儀なくされ、2012年にベガルタ仙台レディースが発足。こうして小野さんは不思議な縁で、地元宮城、仙台へと導かれていきます。(続く)

村林いづみ
村林いづみ

フリーアナウンサー、スポーツキャスター。2004年からラジオでベガルタ仙台のトーク番組を担当し、2007年よりスカパー!や DAZNで中継リポーターを務める。ベガルタ仙台レディースは2012年のチーム発足時より取材を開始。ヒーローインタビューと勝利の祝杯を何より楽しみにしている。