
新たな仕事は『まちをクリエイト』すること。元サッカー選手・田村直也が描くキャリアと仙台の未来【前編】
Interview
FOOTBALL
※写真:ご本人提供
2019年で現役サッカー選手を引退した田村直也さん。2017年には選手としてプレーを続ける一方で、「株式会社TMFC」を立ち上げました。サッカースクール事業とアパレル事業を柱として、「REMEMBER3.11」を合言葉に、震災を忘れないための復興支援活動も行っています。
―現役中に始めた「株式会社TMFC」の活動ではアパレルのプロデュースや販売、復興支援のサッカー教室も行ってきました。
「2017年ですかね。サッカー選手時代の『空いた時間の物足りなさ』を感じていたので。自分の経験値を上げたかったし、本当にそれで食べていこうとも思っていたので。やってきたことはすごく良かったと思っています。コロナの状況でいろいろ予定がずれてしまってはいますけど、仙台でも「REMEMBER3.11」は続けていきます」
―東日本大震災発生から10年。宮城で生きていく上で、震災復興についてはどう関わっていきますか。
「選手だった2011年、当時(手倉森)誠さんが『復興のシンボル、希望の光になろう』ということを言っていました。僕たちに『試合の日だけでも辛い思いを忘れられる』と言ってくれた被災者の方々がいて、そういう人たちに返さなきゃいけない思いがあったんです。そういう思いを持ちながら東京に移籍してしまいました。「REMEMBER3.11」は東京で多くの人が震災について忘れてしまった中で、何かできないかと思って始めた活動でもありますね。今度は逆に宮城から外へ発信していくということができると思います」
「建設界で考えれば、いろいろな技術が充実してきて、今度災害があった時には守りたい人を守れる。ライフラインや備えの知識は、違う場所で災害が起きた時に使われるものとなります。あの時全国から集まってくれた解体業者さんがいたんですけど、今度は何かあれば私たちが駆け付けますよと、メッセージを送りたい。そんな風に、してもらったことや思いを返していきたいんです。東京にいた時は宮城に返したいと思っていたし、宮城にいる今は全国に返していきたい。いろいろな恩返しの仕方があると思います」
―田村さんのアクションの動機は「恩返し」なんですね。
「押しつける恩返しは嫌ですね。人に求められることに対して返したいです。『恩返しをやってます!』って主張するのではなくて、やりたいからやる。それが結果的にまちの人のためになればいいかな」
―この先のビジョンはどう描いていますか。
「生まれてから22歳の大学生まで東京にいて、サッカー選手としてのキャリアがそこから13年。35歳で仙台に戻ってきて、(去年)36歳になったんですけど、この先の10年で宮城に何かしらのものを残したいです。45歳になった時に、また違うものが見えるのかなって。そしたら、その時にまたサッカーの世界に戻っても面白いですよね。何かを残すのに10年もかかるのは遅いかなって気もしますけど、何かを必ず残したい。巻き込んだ人たちと、『田村が仙台に帰ってきたから面白いもの作れたな』というものを」
―「選手時代とその後」と分けるのではなく、歩んできた全てが一つにつながっている人生なんですね。
「実は『セカンドキャリア』という言葉に違和感はずっとあります。実際は、セカンドキャリアなのでそれはしょうがないんですけど、考え方としてどう捉えるか次第ですよね。僕は僕で、その時々でヴェルディユース、中央大学、ベガルタ、ヴェルディ、そしてエルエスシーに所属しているという感じです。一人の人として。その方が進みやすい。ただ、今こうしていろんな人たちと出会えるのも選手だったから。それは今まで選手としてやらせてもらっていたことに感謝をしなければいけないですよね」
―人生の中でご家族の支えはどのように感じていましたか。
「自分って結構メンタルが弱いんですよ。繊細で……(笑)家族が『大丈夫でしょ』って言ってくれて助かっています。こう見えて慎重派なので、背中を押してもらっています。夫婦ってチームで言うと、監督とコーチのような関係もそうですよね。渡邉晋監督の時に、小林慶行コーチがいて、違うところを補っていたと思うし、ロティーナだったらイヴァンという攻撃を指導できるコーチがいた。僕も奥さんとは、そういうデコボコで上手く来たなぁという気がしています。僕を立ててくれる時もあれば、逆に僕が奥さんを前に出す時もあります。それはいいバランスでやっているのかな」
ヴェルディ引退セレモニー家族写真 ※ご本人提供
―引退セレモニーの時に現れた奥様、凛としていてとても格好良かったです。
「僕は選手時代から、選手の奥さんらしくしなくていいって言っていたんです。彼女には彼女の苦労があったと思うんです。仙台で交際していた時も、特に隠さずアーケードを二人で歩いていたし。僕はそういうのが楽だったから良かったですけどね。ずっと彼女の素を出して欲しいなって思っていました」
―お子さんは二人、とても大きくなりましたね。
「息子が小学4年生、娘が小学2年生。僕がサッカーをしていたからこそ、息子はサッカーにはまらなかったですね。娘は運動神経があって、陸上の選手になりたいと言っています。そういう道に行かせたいですね。2人とも仙台で生まれました。下の子が生まれてすぐに東京に行って、今回は家族で仙台に帰ってきた。今は良かったなって本当に思っています」
―引退を決めた時は家族にどう伝えましたか。
「実は2020年まで選手としての契約があったんです。でもどうしようと考えた時に、クラブがお金を払ってくれるのももったいないから辞めよう、って。最後の一年(2019年)はあまり試合にも出ていなかった。開幕戦で出場したけれど、その後あまり出られなくて…………。家族と過ごす時間が増えて、『引退しようかなぁ』『いいんじゃないの』って」
―今とは全く違う時を過ごしていたかもしれない2020年だったのですね。
「本来は選手としてやっていたかもしれない一年。僕の中では、どこかで『もう一人の自分』を見ているんです。選手として最後の年を迎えて、今頃は引退発表しているのかなとか。その一年分で得られたものを上回らなければいけないと思って、せかせか動いているから余裕がない。いい意味で言えば、チャレンジできているという感じです。選手を引退して1年早く仙台に来られたことを良かったと思いたい。常に今の自分を『もう一人の自分』と比べています」
―引退してからの一年、かなり頑張ったのでは?
「そんなことないですよ。全然です。会社のことでも、見積りから何から全部覚えなければいけない。はたまた家族も環境が変わって…………と、いろんな変化がありますけど、全て楽しさが上回っています。今やっていることは種を蒔くこと。自分のことも伝えたいけど、ベガルタのこと、会社のことも、宮城のことも伝えたいし…………。関わる人がどこかで面白いと興味を持ってくれればいいですね。何より僕が勝手に仙台、宮城が好きですからね」
―宮城、仙台をどんな街にしたいと思いますか?
「100万人都市が、何年後かに人口100万人を切るというエビデンスも出ている中で、仙台を『学生が出て行かない街』にしたいです。働きたい会社というものを増やしたい。そこに対して、まだ何ができるのかわかりません。でもそういったビジョンに向かっていく一人になりたいです。素晴らしいオフィスがあって、働きやすい環境がある、魅力のある会社が増えれば若手人口の流出は防げるかもしれない。まずエルエスシーがそういう会社としてありたい。そして個人としても宮城のすばらしさを他県に、もっと言えば世界に広げていきたいです。そのために、10年後は実際何をしているかわからないけれど、そこに向かっていきたいです」(完)
【田村直也さん プロフィール】
東京都多摩市出身。1984年11月20日生まれ(36歳)。小学1年生からサッカーを始める。
東京ヴェルディジュニアユース、ユースでプレーし、中央大学を経て、2007年ベガルタ仙台入団。2014年、東京ヴェルディへ移籍。2017年には「株式会社TMFC」を立ち上げ、代表に就任。アパレル業、スポーツ振興と地域貢献、震災復興に関わる活動を実施。2019年に現役引退。2020年、仙台市の解体・建設業、株式会社エルエスシーに入社。営業・広報として社業に勤しむ一方で、サッカー解説者としてTVや新聞、SNSなどで活躍。プロとしての豊かな経験と独自の戦術眼でチームを超え、サッカーファンの支持を得ている。家族は妻と一男一女。
Photo by 土田有里子
フリーアナウンサー、スポーツキャスター。2004年からラジオでベガルタ仙台のトーク番組を担当し、2007年よりスカパー!や DAZNで中継リポーターを務める。ベガルタ仙台レディースは2012年のチーム発足時より取材を開始。ヒーローインタビューと勝利の祝杯を何より楽しみにしている。