
仙台にも豊かなサッカー文化を。緑の絨毯の守り人【前編】
Interview
FOOTBALL
サッカーJ1ベガルタ仙台、J2東京ヴェルディで活躍し、2019年シーズンに現役のプロサッカー選手を引退した田村直也さん(36歳)。次なるフィールドは第二の故郷、宮城県仙台市です。2020年に株式会社エルエスシー(仙台市)に入社。スパイクを革靴や安全靴に履き替えて、新たな一歩を踏み出しました。第二の人生はサラリーマン?しかも解体業?選手時代を経て今だから感じる「キャリア」のこと、引退から一年間の歩み、そしてこれからの展望を伺いました。(全3回)
―現役生活、本当にお疲れ様でした。まずは現在の肩書を教えて下さい。
「クリエイターです(笑)まちづくり、まちを作る方のクリエイターですね。僕は東京出身なんですけど、ベガルタ仙台で7年間お世話になって、その頃に選手として見ていた景色はすごく狭かったと思います。2014年に(東京)ヴェルディに戻って(田村さんはヴェルディの下部組織出身)、まず感じたのは『昔のヴェルディではなかった』ということでした」
―「昔のヴェルディではなかった」とは?
「お客さんが味の素スタジアムに3000人位、多くても5000人位という現実を目の当たりにしました。そこからサポーター、スポンサーを巻き込んで、このヴェルディというチームを再建する、クリエイトするということに力を注いできたんです。2019年で引退して宮城に戻り、果たして自分に何ができるのかを考えました。僕の今の本職は『解体業の営業』ですし、そう言った意味でのまちづくり、そこから派生してサッカー界隈の人たちと関わってベガルタ仙台の魅力を再び構築していくという外からクリエイトしていく。宮城県、東北を、大きく言えばクリエイトしていきたい。そういう意味での『クリエイター』という感覚です」
―「クリエイター」とはちょっと予想外の答えでした。
「そういう感覚でいる、ということですね。株式会社エルエスシーという会社の営業・広報をしていますけど、メディアに取り上げてもらい、人の魅力を伝え、誰かと誰かの『ハブ』になる役割をしています。それがベガルタ仙台の中には入らないけれど、仙台に帰ってきた一つの大きな価値だと思っています。いろんな方に生かしてもらいたいし、僕も生かされて何かを還元したいなと思います」
株式会社エルエスシーのユニフォーム姿の田村さん ※ご本人提供
田村さんは「株式会社エルエスシー」の経営企画室で営業・広報として勤務する一方で、サッカー解説者としても活躍中。サッカー選手のキャリアについて現役時代から様々なことを考え、行動していました。
―サッカー選手の引退後の選択肢は多様になっていますね。
「そうですね。僕はベガルタ仙台にいた時はサッカーという『ムラ』しか知らなかった。中学・高校で育ったヴェルディという古巣に帰ったことで、黄金期と違ったヴェルディを見た時にある意味、物足りなさを感じました。サッカー界という『ムラ』だけで、その中だけで生きていくのは将来つまらないと思ったんです。全く違う畑に行って、自分たちを客観視して、サッカー界にプラスできる要素をつけ加えたいと思った。いずれはサッカー界の魅力を広めていきたいという思いが強いので、中からではなく外から彼らを応援したいと思ったんです。選手たちのセカンドキャリアをより充実させるために、僕自身が違う世界で頑張って成功して、希望になる。ベガルタやヴェルディを卒業した選手たちが新しいキャリアに入って行くことに不安がなくなるような……将来的にはそこまで考えていきたいですね。今は駆け出しで大きなことは言えないですけど、一つ一つ、短期・中期・長期で見れば、そういうことが自分の目標になるのかな」
―黄金期のヴェルディを子供時代の田村さんはどう見ていましたか。
「Jリーグが発足した1993年、僕は小学生の時でした。実際に中学1年生から高校3年まで6年間ヴェルディ(の下部組織)にいた頃は、クラブの華々しい歴史がありました。目の前でカズさん(三浦知良選手)やラモス(瑠偉)さんがプレーしていて、それを見て育ちました。プロ選手ってこういうものであるというイメージはずっとあります。近年のJリーガーの価値と考えると、慈善活動等をする選手も増えましたけど、様々な問題が起こっていることなどを見ても、人間性で価値を上げていかなければと。僕なりに感じることはありますけど、もうちょっと選手のキャリアという点でサポートしたいな、と」
―現役中に引退後のことを考えるのを躊躇したり、考えられないという選手も多いと思います。
「今はそうではいけないですね。ただ現役中に100%サッカーに対して注ぐ情熱はマストです。プロとして自分が選んだ道ですから、そこに100%の力を注ぐのは当たり前。でもそれ以外に、自分の責任やコアになるものを敢えて背負うということは必要ですよ。まちの人の思いや自分が勉強する時間を持つこととか、それは100%でサッカーに打ち込む時間以外でもできると思うんですよ。それを活力にしてサッカーでの活躍やキャリアにつなげなきゃいけない。その力のかけ方がサッカー50%、それ以外50%になってしまっては本末転倒だけど、サッカー100%に+50%でできることがあれば、その50%はプラスになるという考えです。重荷になるのであればやらない方がいいし、僕はその50%のものが選手キャリアを大きく膨らませてくれたので、やって良かったなと思います」
―まちの人の思いを背負うことの大切さ、そこに気づいたきっかけは?
「ベガルタにいた時はお客さんがユアスタに自然に来てくれて、選手たちが勘違いしてしまうような声援を送ってくれて……。もてはやされて、勘違いしてしまうような環境だったと思うんです。ヴェルディに戻った時に、3000~5000人、イベント試合で1万人入ればすごいという状況で……。味スタは3万人規模のスタジアムなので、本当に席が埋まらないんですよ。サポーターがチラシを配り、集客のために活動をしてくれているのを知ってすぐに一緒にやらせてもらって、サポーターとの距離感を考えました。その時にすごく気づかされたことが多かったですね」
―具体的にどのようなことに気づかされましたか。
「プロスポーツ選手って『なくてもいいもの』と思ったりするんですよ。なぜプロがあるかというと、それを応援したい、見たいという人がいて、生きがいになっているから。そこに価値があるということを知りました。だからこそ、選手は求められるものも多い。それなりの身なりや振る舞いをしないといけない。そして次のキャリアでも輝かないと、選手としてやってきたことの説得力が無くなってしまうと思うんです。今からの10年、仙台で何かを作り上げていきたいというのが僕の恩返しですね。サポーターって、サッカーを生きがいにしてくれる人が多いですよね。仙台にベガルタがあるということを考えても、東北で一番魅力的なチームにならないといけないと思うんです」
―チームの魅力づくりやそれを伝えていく手段はどう考えますか。
「メディアなどいろいろな人が選手の魅力を発信しようとしてくれている。それを選手はもっとうまく使わなきゃいけない。自分の魅力を何倍にも引き出してくれる人が周りにいる。そこに対して、自分の魅力をもっと出す。作られたものではなく、内面からにじみ出る魅力を出していけると、ファンサポーターはその選手をすごく応援してくれると思うんですよ。そういう選手がたくさんいれば、クラブにとってもいいこと。その選手が違うクラブに行って輝けばもっと仙台の価値が上がる。そういった連鎖があればいい。僕自身、死ぬまで『元ベガルタの選手』ですから。そういう気持ちは持ち続けていたいですね」
―自分の価値を上げることがチームの魅力を上げる。そういうことに気づいたのは?
「現役時代から気づいてはいました。30歳くらいからですかね。ヴェルディに移籍したのは28歳くらいだったので、あっちに行った1年目くらいに気づきました。日本代表だった高原(直泰)さんや(森)勇介さんがヴェルディにいたんです。僕はその1年目にキャプテンをやらせてもらって、上と下をつなぐハブのような役割をしていました。監督やスポンサー、サポーターも含めて。そういう経験を1年でドバっとやったので、それがすごく苦しかったけど大きな経験になりましたね」
―キャプテンは適任でしたね。
「役割が与えられれば人はそこに向かっていくと思っています。僕の場合はそれがキャプテンという役割だったわけです。立ち位置というか。そういう役割を与えてそこに向かう意欲や能力があれば、ちょっと変わっていく選手もいるのかなと思います。それは今やっている選手たちに伝えていきたいですね。ヴェルディでも毎試合キャプテンを変えたりしていて、そうすると当事者意識が沸くんですよ。会社の経営などは、僕は未熟なのでまだわかりませんけど、役職や職責は人を育てると思います。選手たちの中にもそういう役割があっていいと思います。スポンサーリーダーとか、サポーターリーダーとか。広報的な役割が得意な選手もいるだろうし……。そういうこともクラブの中の一つの評価にしてもいいかもしれませんね」
―キャプテンや選手会長以外にも、選手に担当する「係」があるのは面白いですね。
「宮城全体をホームタウンと考えると、『地区担当選手』を決めてもいい。それはレノファ山口などがやっているんですよ。仙台市でも太白区はこの選手、宮城野区はこの選手と決めたら面白い。その町に、この店にこの選手が来てくれたということは、そこをベガルタに巻き込める要素になるんですよ。それで全くベガルタや選手を知らなかったおばあちゃんやお孫さんが、1試合来てくれるだけでも素晴らしいことだし、その人たちが選手の魅力を誰かに話してくれれば、自然とベガルタ仙台の魅力が増していく。その力の生かし方です。」
―仙台の都市規模だと、地域に入っていきやすいかもしれませんね。
「ヴェルディのことを考えると、東京にはFC東京もある、20分行けば川崎フロンターレの練習場もある。お客さんの取り合いになるわけです。でもベガルタにとっては、仙台というこんなにいい街がある。そこに自分たちから出て行かないといけないですよ。コロナ感染拡大の状況もありますけど、できることは必ずあるはず。今、まさにこの経営難をみんなで乗り越えていきましょうというタイミング。きっかけになることはいくらでもあります」(続く)
【田村直也さん プロフィール】
東京都多摩市出身。1984年11月20日生まれ(36歳)。小学1年生からサッカーを始める。東京ヴェルディジュニアユース、ユースでプレーし、中央大学を経て、2007年ベガルタ仙台入団。2014年、東京ヴェルディへ移籍。2017年には「株式会社TMFC」を立ち上げ、代表に就任。アパレル業、スポーツ振興と地域貢献、震災復興に関わる活動を実施。2019年に現役引退。2020年、仙台市の解体・建設業、株式会社エルエスシーに入社。営業・広報として社業に勤しむ一方で、サッカー解説者としてTVや新聞、SNSなどで活躍。プロとしての豊かな経験と独自の戦術眼でチームを超え、サッカーファンの支持を得ている。家族は妻と一男一女。
Photo by 土田有里子
フリーアナウンサー、スポーツキャスター。2004年からラジオでベガルタ仙台のトーク番組を担当し、2007年よりスカパー!や DAZNで中継リポーターを務める。ベガルタ仙台レディースは2012年のチーム発足時より取材を開始。ヒーローインタビューと勝利の祝杯を何より楽しみにしている。