
万屋美穂は、柔らかな笑顔の奥に芯の強さを忍ばせる。胸に刻むのは『絶対的な自信と謙虚な姿勢。感謝』という高校時代の教え【前編】
Interview
FOOTBALL
マイナビ仙台レディースで、現在最年少の猪瀨結子選手は、優れた選手たちと磨き合い、毎日の練習から様々なことを吸収しています。サッカー選手になるため、親元を離れて仙台へ。マイナビ仙台レディースアカデミーの希望の星として、後輩たちのまなざしも一身に受けています。未来へ力強く進む猪瀨選手の言葉をお届けします。
―改めてルーツについて伺うと、ご出身は栃木県。小学校3年生でサッカーを始めました。どのようなきっかけでボールを蹴り始めたのですか?
「2歳上の兄が小学校の部活でサッカーをやっていて、それについて行くような感じで始めました。試合について行ったら、気づいたら始めていたという感じでした」
―その時は、チームの環境として、チームメートに女の子はいましたか?
「いなかったんです。その後、中学校で栃木SCレディースのチームに入って、女子のチームでプレーしました」
より高いレベルを目指して仙台へ。目指す先にはトップチームがあった
―栃木SCでプレーした中学3年間はどのような時間でしたか?
「栃木の北の方に住んでいたんですが、練習場は宇都宮で1時間半くらいかかる距離で通っていました。すごく大変だったんですが、指導者やチームメートに恵まれて、楽しく伸び伸びとできました。そこで得られたものが、サッカー人生の中でも大きかったかなと思います」
―どういうものを得ることができたと思いますか?
「中学2年生の時に、今も栃木SCレディースの監督をされている久保田(圭一)監督が指導してくれました。それまではただただ、楽しくてボールを蹴っていたのですが、戦術や技術を学べたということが、自分の中でとても大きかったです」
―プロになりたいと思い始めたのはそのころですか?
「うーん。サッカーを始めた頃から、『なでしこジャパン』ということはいつかと思いながらやっていました。そんなに明確な目標ではなかったんですが……。実際に強くプロになりたいと思ったのは、自分が高校3年生になる時に、女子サッカーがプロ化されてWEリーグができたので。それまでは進学なども考えていたんです」
背番号36は、3月6日生まれだから
―そうした決断に至ったのが、親元を離れて過ごした仙台での高校3年間。マイナビ仙台レディースユースでの時間ですね。
「寮生活だし、学校も、サッカーでも、普通に生活している中で、チームメートとずっと一緒でした。それが良かったなって思います。ずっと一緒でした(笑)」
―仙台白百合学園で学んだ日々、マイナビユースの選手はみんな同じクラスでしたか?
「そういう訳ではなかったんですが、なんだかんだ一緒にいましたね」
―四六時中一緒に過ごして、ケンカになったりしないんですか?
「なりますよ!普通に(笑)」
―そういう時はどうするんですか?
「まぁ……、時間が経つのを待つか、他の子が介入して和解するかですね」
―高校の3年間は小川翔平監督が指導してくれました。
「球際に強くいくとか、1対1で負けないという、自分のストロングを、小川さんの下で、より伸ばしてもらえた3年間だったと思います。自分の代は個性が強い選手が多くて……。でも、それぞれが個性を生かせるようなチーム作りをして頂けました。みんなが伸び伸びやれたんじゃないかと思います」
―アカデミーの選手たちは、学年や代によって、個性や雰囲気は違ったりするんですか?
「はい。全然違います」
―猪瀨選手の代は、特に個性が強めだったんですね。でもその中でも、猪瀨選手はしっかり自分の意見を持って行動できていたのでは?
「そうですね。副キャプテンという立場もありましたし、一番上の代、1期生として、チームを作っていかなきゃという思いもあったので、その中で自分を持って、意見を言ったりということはありました」
強烈な個性を持つチームの中でも埋もれない。大事な時は自分をしっかり貫く
―選手にとっても監督にとっても「アカデミーの1期生」という意識は特別なもののようですね。
「そうですね。1期生から歴史を作りたいというか、実際に全国大会で準優勝して、ひとつ歴史を作ることができたのは3年間の成果だったのかなと思います」
―その準優勝をした2021年のクラブユース選手権。チームとしてのどういう良さが発揮できた結果だったのでしょうか?
「自分たちの代は1年目から3年生と戦うことができました。2年目、3年目と進むにつれて、後輩たちも入ってきますが、3年間かけてチームを作ることができた。その成果が出せたのかなと思います」
―これはチームの完成度だけではなく、選手一人一人の経験値にもなりますね。成果が出せた一方で、猪瀨選手ご自身は、高校時代、幾度もけがに苦しめられてきました。どんな風に向き合いながらサッカーを続けてきましたか?
「けがで言うと、(世代別)代表の辞退も結構ありましたし、高校最後の大会も出ることはできませんでした。最後の大会に出ることができなかった時は、トップチームへの昇格も決まっていた時期でした。自分には目指しているものがもっと上にある、諦めちゃいけないと。もっと強くなって戻ろうと思って乗り越えてきました」
―そのように、自分の大事なものや今より先のことにベクトルを向けられる考え方はどこからきているのですか?その強さの源と言いますか……。
「まず、負け嫌いな性格というのが大きいと思います。他人に対しての負けず嫌いじゃないんです。自分自身に対して負けるのが嫌いです。そういうことから、強くいられるのかなと思っています。あとは、本を読むのが好きで、考えがブレそうになる時も、いろんな人の考え方を取り入れて、その上で、『やっぱり自分って、こうだな』と再確認できます。そうやって、いろんなことを乗り越えてきたのかなと思いますね」
―しっかりしていますね。
「ありがとうございます(笑)」
自分たちが歴史を作ると意気込んだアカデミー時代。今度はプロで道を切り開く
―アカデミーから昇格した第一号選手として、きっといろいろな方の思いを背負ってプレーしていると思います。アカデミーの希望の星であるということについてはどう思いますか?
「高校3年間、このクラブで育ててもらったことに対する恩返しもしたいですし、アカデミー出身ということで、今いるアカデミー生、これから入ってくるアカデミー生の憧れとなれるように頑張っていきたいと思います」
―将来のビジョンやこの先の未来はどんな風に思い描いていますか?
「アカデミー出身というところが大きいんですが、『このクラブの選手と言ったら猪瀨』と言われる選手になれるように頑張りたいです」
―なれます。「クラブの顔」になりましょう!
「はい(笑)」
―来月からは2022-23シーズンのリーグ戦が始まります。猪瀨選手にとってはプロ2年目、どのようなシーズンにしていきたいですか?
「昨シーズンは、プロで半年プレーしてデビューできたことを生かして、更に試合に出て、チームを勝たせられる選手に成長していきたいです」(完)
Photo by 土田有里子
フリーアナウンサー、スポーツキャスター。2004年からラジオでベガルタ仙台のトーク番組を担当し、2007年よりスカパー!や DAZNで中継リポーターを務める。ベガルタ仙台レディースは2012年のチーム発足時より取材を開始。ヒーローインタビューと勝利の祝杯を何より楽しみにしている。