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Interview
PARKOUR
「宮城・仙台を日本のスポーツ教育を変える起点にしたい」パルクールに魅せられた男・石沢憲哉が見据える未来図【前編】

近年、アクロバットな動きから人気や注目を集めているパルクール。しかし、パルクールの本質的な魅力は、他の部分にあるといいます。2008年からパルクールを始め、現在は「合同会社SENDAI X TRAIN」でパルクールの普及に努める石沢憲哉さん。前編では、パルクールを始めた経緯や、パルクールというスポーツが持つ特性についてお聞きしました。
―まずはパルクールとはどのようなスポーツなのか、ご説明をお願いします。
元々は1960年ぐらいに、フランスの軍隊トレーニングとして始まりました。当初は「method naturelle」という名前で、走る、跳ぶ、登る、担ぐ、引っ張る、泳ぐといった、人間の基礎的な動作を鍛えていくために、崖を登ってみたり、高いところから跳んでみたり、そういうことをやっていたようです。その軍隊トレーニングを若者たちが真似をして、パルクールという言葉が作られていき、街中で宙返りをするなど、かっこ良さをより求める動きにシフトしていきました。ただ、あくまでもトレーニング文化であることは変わらなくて、体を鍛える、強くするといったことが一番の目的なので、アクロバットな動き=パルクールではないんですね。ちなみに、僕がパルクールを始めた2008年は、トレーニング文化としてのパルクールがようやく日本に入ってきた頃でした。なので、競技化されたのは、ここ最近の話になります。
―競技としては、どのような特性があるのでしょうか。
まず、パルクールには「フリースタイル」「スピードラン」「スキル」という3つの競技があります。おそらくパルクールと聞いて皆さんが最初に思い浮かべるのはフリースタイルで、言葉通り自由演技になります。ダンスの要素を入れたり、蹴り技を使ったアクロバットな要素を入れたり、そうした動きをパルクールと組み合わせて表現します。採点方式のいわゆるジャッジスポーツになるので、派手さもさることながら、手の付き方とか、脚の向きとか、細かい動きも大事になってくる。そこが見どころの一つですね。スピードランは、スタートとゴールの間に障害物が並んでいて、それを避けながらいかに速いタイムで走り切れるかの勝負になります。派手さはないですが、一般人では予想もできないような細いコースや高い位置を走り抜けていくので、そこが魅力の一つかもしれません。また、スキルは、用意された課題を決められた条件の中でクリアしていく競技で、ボルダリングと競技性が似ています。単発の動きが多いですが、厳しい条件下で課題をクリアするというのはパルクールの根源的な動きに近いので、本来の技術が一番求められる競技になっています。今はフリースタイルがメディアに取り上げられる機会が多く、それがパルクールという言葉とリンクしてしまいがちですが、厳密にはパルクールというスポーツの中に3つの競技が存在している、といった形になります。
―石沢さんがパルクールに興味を持ったきっかけは何でしょうか。
小さい頃からウルトラマンや忍者といった、軍隊っぽいものがすごい好きで、家で手裏剣を作ってみたり、ロープを巻いて2階から降りてみたり、そんな遊びをするような子どもでした。なので、中学生の頃までは、刀を作る刀鍛冶になりたいとか、海外の特殊部隊に入隊したいとか、そうした夢を持っていたんです。ただ、高校生になって、現実的に将来のことを考えたときに、それは無理だなということが分かり、作業療法士の道を選びました。そして専門学校を卒業して、病院で勤務することになったのですが、それが本当にやりたいことだったかと言われると違かったんですね。そんなときに、何気なくパソコンで「忍者」って検索してみたら、人が高いところを走ったり、登ったりしている動画を見つけました。「これはなんだろう?」と思って調べて、そこで初めてパルクールを知ったんですね。しかも、これまた奇跡だったのが、その頃僕は岩手県の盛岡市で働いていたのですが、なんと当時、盛岡にパルクールの社会人チームがあったんですよ。それでリーダーの高橋祥吾さんに連絡を取ってお会いすることになったのですが、歴史的背景含めてパルクールの全てを説明してくれて「パルクールは生き方そのもの」と教えてもらいました。その話を聞いて、パルクールが街中でかっこつけて宙返りをするだけじゃない、志が高くて素晴らしいスポーツなんだと分かって、パルクールを本格的に始めてみようと思いました。
―パルクールを知った当初はアクロバット=パルクールだと思っていた、それがチームに入って変わったということですね。
そうですね。でも、チームに入って意識は変わりましたが、憧れみたいなものは消えなかったです。街中に出て、走って、アクロバットの動きをして「あいつすげー!」って思われたい、そういう気持ちはずっとあったんですよ。なので、2008年にパルクールを始めて、パルクールの本質は理解したけども、やりたいパルクールはやはりアクロバットの動きだったので、高いところから飛び降りてみたり、壁をよじ登ってみたり、そういうことをずっと続けていました。そんな中、2年後の2010年に僕、膝を手術するような大怪我をしてしまうんですね。宙返りをしたときに、前十字靭帯、内側側副靭帯を切って、半月板も割れてしまって。それで手術のときに、祥吾さんがお見舞いに来てくれたのですが、そこで「憲哉、俺が言ってきたことってこういうことなんだよ。技ばかり練習しているけど、パルクールは『自分』というものを鍛えていかないといけないんだぞ」と言われたんです。その言葉で一念発起したというか、考え方を変えて、アクロバットとか派手な動きではなくて、基礎をしっかり固めようと決めて、よりパルクールと真剣に向き合うようになりました。
―2016年には「合同会社SENDAI X TRAIN」を設立し、より活動を本格化させていきます。
それまでずっとパルクールは続けていましたが、当時は地元のチームの仲間以外、ほとんど知り合いがいない状態で、一緒に練習できる人、パルクールの話を共有できる人がほしいと思っていました。そんなときに、2016年に東京でパルクールの大きい練習会が開かれると聞いて、そこに行ってみたら、今、うちの会社で東京の代表を務めている佐藤惇に出会いました。彼はTBSの「SASUKE」にも出ていているような人で、当時からパルクール指導員を務めていたのですが、僕がパルクールを始めた頃から怪我をした経緯まで全部話をしたら、「憲哉さん、それこそ自分がやりたいパルクールだ」って言われたんです。SNSなどでパルクールが知られるようになってきたけど、街中でのアクロバットな動きだけが広がってしまっている。本来のパルクールの素晴らしさをたくさんの人に知ってほしいよね、という思いを共有することができたんです。それで同年、パルクールの会社としては日本で初めてとなる「合同会社SENDAI X TRAIN」を、東京と仙台の2拠点で立ち上げました。
―石沢さん自身、パルクールの一番の魅力をどこに感じていますか?
先ほども言ったように、昔は何よりもかっこ良さだと思っていました。どう考えても無理だろうと思うような動きを、いとも簡単にやって見せる。超人的な姿こそ、パルクールの魅力だと。でも、会社を興すことになり、パルクールと社会をどうつなぎ合わせていけるかを考えたときに、また少し違った魅力に気付いたんです。それは、このパルクールが教育に役立てるかもしれないということです。本来のパルクールは、自分を強くするためのトレーニングですが、そのためには行動力、思考力、問題解決能力が試されます。今の時代の子どもたちって、運動能力の低下や、うつ傾向、自己肯定感の低さなどが指摘されていますが、パルクールは、球技が苦手な子どもでも、チームスポーツが苦手な子どもでも始めやすいスポーツだし、同時に頭の中の創造性を鍛えることだってできるんです。なので、僕たちの会社でも「パルクールを教育に活用しよう」「パルクールが地域にとって必要と思われる存在にしよう」という理念を掲げて活動しています。
―パルクールには体を鍛えるだけでない、別の可能性も秘められているんですね。
そうですね。なので、うちの会社がやっていることって、パルクールを教えるのではなくて、パルクールというスポーツを通じて子どもたちの「考え方」を養っているんですよ。たとえば、子どもが壁を登ろうって思ったときに、横から登ってもいいし、壁を蹴って登ってもいいし、最終的には親を呼んで「抱っこして!」ってお願いしてもいい。つまり、目的に向けてあらゆる手段を使って、自分の理想を叶える、それこそパルクールの考え方であり、今の子どもたちに大事なことなんです。僕はこのパルクールの文化が素晴らしいと思うんですよ。目的に向けて、自分で手段を選択して、自分で行動して、自分で修正して歩んでいける。僕もそのような考えを持つことで人生が変わったし、子どもだけでなく、大人を含めた今を生きている現代人にとって、ものすごく効果的なことだと思っています。
▼プロフィール
石沢憲哉(いしざわ・かずや)◎1987年2月13日生まれ、青森県五所川原市出身。2008年からパルクールを始める。現在はパルクールの指導、普及活動を行う傍ら、「パルクール×教育」「パルクール×運動発達」など、子どもの教育や発達をテーマにした講演や研修会で講師を務める。合同会社 SENDAI X TRAIN CEO。一般社団法人日本パルクール協会副会長。仙台市在住。2児の父。
Photo by 渡邊優

1992年10月14日生まれ、岩手県一関市出身。一関第一高校卒業後、仙台大学体育学部スポーツ情報マスメディア学科に進学。アルバイト等で執筆経験を積み、2015年4月より岩手県盛岡市の制作会社「(株)ライト・ア・ライト」に入社。地域限定スポーツ誌「Standard」の制作等に携わり、2019年4月よりフリーランスとして活動中。