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Interview
FUTSAL
苦難の2年間を乗り越え、帰ってきたFリーグの舞台。監督・清水誠はヴォスクオーレ仙台のために全てを捧げる【前編】

今年2月、Fリーグクラブライセンスの交付、F2リーグ参入が発表されたヴォスクオーレ仙台。3季ぶりの復帰となるFリーグの舞台に向け、誰よりも熱い闘志を燃やすのが清水誠監督です。前編では、10年前のクラブ創設時から現在に至るまでの流れや、クラブライセンスが停止されてからの2年間の苦労をお聞きしました。
―現役時代を含め長きにわたりヴォスクオーレ仙台に所属していますが、まずは仙台にやってきた経緯をお聞かせください。
震災当時、府中アスレティックFCでプレーをしていて、当日は代々木第一体育館で全日本選手権の試合がありました。結局、震災の影響で大会は中止になったのですが、その後勝ち残っていたベスト8のチームでオールスターゲームのようなチャリティーマッチをすることになり、そこの選手に選んでいただきました。その試合で集まった募金や支援物資を持って東北の沿岸部を回り、子どもたちと触れ合う機会も作らせていただいたのですが、そこで目にした被災地の光景があまりにも衝撃的だったんです。被災地が大変な状況の中で、自分がこのままフットサルを続けるのが正しいことなのかと考えるようになりました。それで、どうせプレーするなら東北のためにプレーしようと思い、当時岩手にあったステラミーゴいわて花巻に移籍をしました。ただ、震災の影響もあったせいか、クラブが1年後にFリーグを退会することになってしまった。そこからどうしようかという話になったときに、関東に戻るという選択肢もありましたが、自分は東北に貢献するためにここに来たので、だったらクラブを立ち上げようと思ったんです。東北リーグを戦っていたディアボーイズ仙台に花巻にいた選手たちが移籍をして「クオーレ仙台」と名前を変えて再出発し、Fリーグを目指すチームが新たにできあがりました。それが10年前ですね。
―当時はどのような苦労がありましたか?
まずは選手たちに「一緒に付いてきてほしい」と頭を下げました。花巻がリーグを退会して、東北にFリーグのクラブがなくなってしまった。もちろん僕らだけのせいではありませんが、それに関わってしまったという事実がある以上、このまま何もしないのはどこか気持ち悪かったんです。クラブを作る、という言い方はおこがましいですけど、できるのであれば僕自身の力で仲間たちをFリーグまで再び連れて行きたい、そんな義務を感じていました。ただ、震災直後とあって、練習場所がなかなか確保できませんでしたし、僕らのようなFリーグでプロ契約としてやってきた選手だけでなく、仕事と両立してプレーする選手もチームにはいました。その中で、今まで週1、2回の練習を週5、6回に増やしたり、夜遅くに練習をしたりと、彼らに無理を強いることもあった。今思えば、負担をかけてしまったなと思いますが、強くなるためには必要なことでもあったので、その温度差を埋める作業にはとても苦労しましたね。
―2013年にはチーム名を「ヴォスクオーレ仙台」に改称し、14年にFリーグ参入を果たします。清水監督自身、選手としては16年までプレーしました。
東北リーグを含めると、仙台では5、6年プレーさせていただきました。やはり現役時代はプロである以上、自分を一番に見てほしいし、自分の価値がすごく大事。いろんな人に応援してもらえて、それに応えるためにピッチでも結果を追い求める、そういう刺激ってなかなか普段の生活では味わえないことなので、そうした非日常的な感覚が気持ちよかったですね。そしてもう一つ、東北でプレーする以上、何かを背負っているという意識はすごくありました。震災があって練習環境もままならない中なので、当然それを負けたときの言い訳にもできる。だけど自分はその状況に甘えたくなかった。仙台ではフットサルだけに集中して、こだわってプレーできたと思います。
―16年に現役引退してから3年後、今度は監督としてヴォスクオーレ仙台に戻ってきます。その間には、他クラブから監督就任のオファーもあったとお聞きしました。
まずは引退してからの期間で指導者ライセンスを取りました。指導者の勉強を一からし直しましたし、育成にも興味があったので、宮城県のU-15フットサル選抜というのを自分で立ち上げて、そこで監督をさせていただきました。その中で、監督としてのスキルや経験を積みながら、しかるべきときに(ヴォスクオーレに)戻るんだという野心を常に持っていました。ヴォスクオーレの監督に就任するまでの3年間、トップチームからアンダーカテゴリーまで、他クラブからオファーがあったのも事実だし、後ろ髪を引かれるときもありました。でも、ヴォスクオーレで監督をするというのは、まさに自分が求めていた環境ですので、その決断に後悔はありません。まあ、シーズン途中での就任だったので、タイミングとしては大変でしたけど(笑)。
―しかし、就任からおよそ半年後、経営難によりクラブライセンスが停止されます。当然ショックも大きかったのではないでしょうか?
決まったことは受け入れるしかないし、まずは選手たちに不安を与えたくなかった。なので雑音が聞こえないように、なるべく現場だけはぎゅっとまとまって、残りの試合を全力で戦うようにしました。でも、当然ショックは大きかったですね。花巻でもFリーグの退会を経験しましたが、逆境と言いますか、茨の道と言いますか、自分がそうした局面に置かれてしまうことが多くて……。
―そこからの2年間は、心情的にも辛い時期を過ごされたと思います。
そうですね。でも、大きかったのは、本間(一真)さんと髙橋(直樹)さん、この2人が代表理事になってくれたこと。それに尽きると思っています。あの2人は「マコ(清水監督)が監督やってくれるなら、自分たちも頑張る」と言ってくれて、本当に苦しい状況を一緒に乗り越えてきたという感覚があります。選手ファーストで、選手のために動いてくれて、自分もそのおかげで頑張ることができた。それに、この2人だけでなく、それでも残ってくれた選手たちだったり、応援してくれるサポーターだったり、そうした人たちの存在がなければ乗り越えられなかったし、ひょっとしたら監督を辞めていたかもしれない。それぐらい、本当に辛かった2年間でした。
―それだけに、今年2月にライセンス交付が発表されたときは、相当うれしかったのではないでしょうか。
めちゃくちゃうれしかったですね。みんな泣いていました。あのときの光景は忘れないし、人生で初めて、他人が喜んでいる姿を見て自分も涙を流しました。あれだけ選手やスタッフが喜んでいる姿を見ると、歯を食いしばって続けてきて良かったなと思いました。
―現役時代からヴォスクオーレ仙台のために尽力してきましたが、生まれ故郷でもない仙台にこだわる理由はなんでしょうか?
それ、よく言われるんですよ(笑)。僕の父親がもともと石巻の出身で、実家が宮城にあったので、記憶にはあまり残っていないのですが、幼い頃によく遊びに来ていました。そういう縁も当然ありますし、このクラブの立ち上げから携わってきて、自分がヴォスクオーレ仙台を作ってきたという自負もある。クラブ愛は誰よりも強い気がします。実は最近、仙台に家も買いました(笑)。それも自分にとっては、ここで生きていくんだという覚悟というか、退路を断ってヴォスクオーレのために全てを捧げようと思っての決断です。もちろん監督業というのは、いつかは契約を切られたり、辞めなきゃいけないときが来る、そんな職種ではありますが、たとえそうなったとしても、クラブを後ろから支えるだけでもいいし、自分ができることはたくさんあるんじゃないかと思っています。あとは、現在は子どもたち向けのスクール活動もしていますが、僕自身、子どもが大好きなので、かわいい子たちがいっぱいいて、一緒にボールを蹴ることができる、それがとても楽しくて仕方ありません。このスクール業は天職だと思っているので、体が動く限り、一生続けたいですね。
▼プロフィール(前編・後編 共通)
清水誠(しみず・まこと)◎1978年6月12日、神奈川県出身。現役時代は、CASCAVEL TOKYO(現ペスカドーラ町田)や、バルドラール浦安、府中アスレティックFCなどでプレー。2013年よりプレーしたヴォスクオーレ仙台では主将を務め、フィクソ(センターバック)として活躍。16年に現役を引退し、19年8月に同クラブの監督に就任した。
Photo by 渡邊優

1992年10月14日生まれ、岩手県一関市出身。一関第一高校卒業後、仙台大学体育学部スポーツ情報マスメディア学科に進学。アルバイト等で執筆経験を積み、2015年4月より岩手県盛岡市の制作会社「(株)ライト・ア・ライト」に入社。地域限定スポーツ誌「Standard」の制作等に携わり、2019年4月よりフリーランスとして活動中。