仙台スポーツ
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Interview

SKELETON

宮城から世界へ――。スケルトンに情熱を傾けた男・髙橋弘篤が歩んだ道のりとこれから【後編】

冬季オリンピック競技としても知られるスケルトンにおいて、国内の第一線を走り続けてきた富谷市出身の髙橋弘篤選手。2018年の平昌オリンピック後は宮城に拠点を移し、活動を続けてきました。後編では、北京オリンピックへの出場を目指した4年間を振り返りながら、地元の応援、家族のサポートに対しての思い、そして今後に向けての決意を語ってもらいました。

 

―平昌オリンピックの後、拠点を宮城県に移されましたが、どのような経緯があったのでしょうか?

2017年の4月に、10年間お世話になった企業さんとの契約が更新されないことになり、クラブチームが解散する形となりました。その後、今もお世話になっている大建工業株式会社さんにサポートしていただき、なんとか平昌を戦うことができました。そして、競技を続けるかどうかという選択になったときに、不完全燃焼で終わったのもあったし、自分の可能性をまだ感じることができた滑走もあったので、4年と言わずとも、まずはもう1年だけでもチャレンジしようと決めたんです。だけど、所属もないし、お金がない。なので、とにかく長野のいろいろな企業に自分からアポを取り、スポンサーを探したのですが、1つもサポートしてもらう企業が見つかりませんでした。そこで、長野ではもう難しいなということで、一旦地元に戻って、同じようにスポンサーを探して、それでも駄目なら諦めようということにしました。それで、妻にも相談して、家族で宮城に引っ越そうと準備を進めていたときに、18年11月、大崎市のトゥーホームサービス有限会社の社長さんと出会いました。状況を説明したら「北京大会まではうちがサポートするよ」と言ってくださって、よりこっちに戻ってくるきっかけをいただいた、という流れです。

―平昌オリンピックが終わってからの1年間は、心境としてもだいぶ大変だったのではないでしょうか。

本当にきつかったですね。今思い出しても大変な記憶しかありません。ただ、僕自身、それまでは考え込むようなタイプだったのですが、とにかく動かなければどうにもならなかったので、まずは飛び込んでみようと、そういう思考に自分をどんどん変えていきました。人間として成長するために必要な時間だったなと、振り返ってみてそう思います。

―現在、トレーニングは1人でされているのでしょうか?

基本的にトレーニングメニューは自分で決めています。ウエイト系だったり、走力系だったり、質や量、体に与える負荷を調整して、いろいろな組み合わせを試しながらやっています。ただ、宮城に戻ってきた1年目は、クラブチーム時代にお世話になった京都のトレーナーさんと個人的に契約を結び、毎月2回ほど行っていました。2年ほど前からは、スポーツプラス(大崎市のスポーツジム)に毎週来られているトレーナーさんに、週1回、多いときには週2回、本格的にトレーニングを見てもらっています。また、大崎市にあるあおやぎ接骨院で体のケアをしょっちゅうしてもらえるので、とても助かっています。

スケルトン・髙橋弘篤選手

―これまでに比べて、スケルトンに対する意識や向き合い方などが変わったのではないでしょうか?

競技自体に対する向き合い方は、基本的には変わっていません。長野のクラブチームにいたときに受けた指導は、自分の核になっていますし、その部分は一生なくならないと思います。ただ、環境が変わったことで、いろいろな人との出会いも当然増えました。それが特に地元だと、より身近な声として自分の耳にも飛び込んできますし、そうした地元の応援というのは単純にうれしいですよね。なので、宮城からオリンピックに出て、メダルを持って帰って来るというのが、今の大きな夢、目標になっているので、そうした競技を続けていくうえでの原動力という部分では、長野にいたときとはまた違うものがあります。

―地元で活動しているからこそ、応援してもらえる部分も大きいのではないでしょうか?

おそらくそうだと思います。でも、オリンピックには毎回のように仙台大学の関係者が出場していますが、県内での競技自体の認知度はそこまで高くありません。なので、取材だったり、講演会だったり、そうしたオファーがあれば基本的には断らないようにしていますし、まずは目に触れてもらえる機会をたくさん作っていきたいなとは思っています。

スケルトン・髙橋弘篤選手

―今シーズンは国際大会への出場ができず、北京オリンピックの出場も残念ながら叶いませんでした。

結果的に選手として大会に出ることはできませんでしたが、正直なお話をすると、むしろ平昌から4年経って、今がいちばんいい状態なんですよ。体力、技術、そして精神的な部分でも、全てが充実していて、だからこそチャレンジをさせてもらいたかったという思いもあります。昨年の秋からは海外遠征に行って、国際大会で事前にコースチェックをするフォアランナーという役割をやらせてもらいました。なので、大会に出場した選手のタイムと自分のタイムを比較することができたのですが、表彰台、入賞圏内に入れるようなタイムは出せているんです。選考基準はもちろん大切ですが、それを守ることを目的にせず、本来の目的である競技の発展・普及と選手の育成・強化という2つの軸を優先した内容になれば、みんなが目指している日本チームの明るい将来につながると思いますし、そのチャンスは十分にあると考えています。

スケルトン・髙橋弘篤選手

2021年11月、カナダ・ウィスラーで行われたインターコンチネンタルカップにフォアランナーとして参加したときの様子(本人提供)

 

―次のオリンピックは4年後の2026年になります。今後については、どのようにお考えですか?

今言えるのは、これで現役をやめるつもりはありません。今自分は辞めるべきタイミングではないと思っているので。とはいえ、4年後となるとだいぶ先が長いので、平昌が終わった後と一緒で、まずは1年、といった感じですね。そこには家族の協力も必要ですが、ありがたいことに理解してくれているので、あとは現実問題、自分が活動できる場所があるかどうか。そこをクリアしていかないとまずは続けることができないので、環境が整えば、またスイッチを入れていこうと思っています。

―先ほどご家族のお話が出ましたが、その支えも大きいのではないでしょうか?

もちろんです。妻にはその都度、今置かれている現状を話すようにしていて、今回オリンピックへのチャレンジができずに終わるだろうということも、昨年の12月に入った時点で正直に伝えました。「残念だね」「やりきれないね」と共感してくれたのはすごくありがたかったし、今後どうするかを話し合ったときも「普通に暮らせるぐらいのお金があれば大丈夫だよ」と、優しくもあり厳しくもある言葉を掛けてくれました(笑)。

―宮城に戻ってきて家族と過ごす時間も増えたのではないでしょうか?

長野にいたときは、ずっとクラブチームで活動していたので、半分以上は家にいなかったと思います。子育てもほとんどできなかったし、義理のお父さん、お母さん、あとは妻のお姉さん夫婦とか、いろいろな人たちに迷惑を掛けてしまいました。なので、宮城に来て、妻はこっちに知り合いがいない分、できるだけ家のことは協力するようにしています。うちの子どもは男2人ですが、幸いなことに、体も丈夫だし、大きな病気をしたこともありません。オフの日も、家族で公園に行ったり、ドライブに出かけたり、充実した時間を過ごすことができています。

スケルトン・髙橋弘篤選手

―最後に、今後に向けての意気込みをお願いします。

今年で38歳になるのですが、スポーツ選手として、この年でまだ現役で活動できていることって、すごくありがたいことだと思うんです。常に感謝の気持ちを持ちながら、競技を続けていく以上はやはり結果で恩返ししたいですし、成長していく過程を見てもらうことで周りの人たちのモチベーションにもつなげていく、そういうエネルギーを僕自身から出していきたいです。また、今回はオリンピックに出られなかったので、ある意味チャレンジは失敗に終わりましたが、この4年間は決して無駄ではないと思っています。自分の思いどおりにできなかった情けなさ、悔しさはありますが、それを次にどう改善して、どう成功につなげていくか。そういう人生にするのが、僕の目標でもあるので。鬼滅の刃の煉獄さんのように、心を燃やして、これからも頑張ります!

 

▼プロフィール
髙橋弘篤(たかはし・ひろあつ)◎1984年4月13日生まれ、富谷市出身。仙台大学でスケルトン競技を始める。2010年12月に全日本選手権で初優勝すると、11、12年も制し、3連覇を達成。全日本プッシュ選手権では、12年から17年までの6連覇を始め、通算8度の優勝を誇る。オリンピックには14年ソチ大会、18年平昌大会の2大会に出場。現在は妻、子ども2人と大崎市で暮らす。

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Photo by 渡邊優

郷内 和軌
郷内 和軌

1992年10月14日生まれ、岩手県一関市出身。一関第一高校卒業後、仙台大学体育学部スポーツ情報マスメディア学科に進学。アルバイト等で執筆経験を積み、2015年4月より岩手県盛岡市の制作会社「(株)ライト・ア・ライト」に入社。地域限定スポーツ誌「Standard」の制作等に携わり、2019年4月よりフリーランスとして活動中。