仙台スポーツ
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Interview

SKELETON

宮城から世界へ――。スケルトンに情熱を傾けた男・髙橋弘篤が歩んだ道のりとこれから【前編】

(提供:KYODO NEWS)

 

冬季オリンピック競技としても知られるスケルトン。氷上を滑走する速度はときに時速150km/hにも及ぶ、迫力満点のスポーツです。そのスケルトンにおいて、全日本選手権での3連覇、オリンピックへの2度の出場など、国内の第一線を走り続けてきた富谷市出身の髙橋弘篤選手。前編では、これまでの経歴を辿るとともに、改めて競技の魅力をお聞きしました。

 

―大学でスケルトンを始めましたが、それまではどんなスポーツをされていたのですか?

小さい頃から体を動かすのが好きで、野山を駆け回ってワイワイ遊んでいるようなタイプでした。小学5年生のとき、担任の先生がクラスでドッジボールのチームを作ろうという話をされて、2年間ドッジボールをやりました。中学校からは、野球が好きだったので軟式野球部に入り、高校からは硬式野球部に入りました。

―そんな髙橋選手が、大学でスケルトンに転向したきっかけは何だったのでしょうか?

最初は大学でも野球を続けようかと思っていて、学内のクラブハウスで入部説明会があるので行くことにしました。そしたら、ちょっと早く着いたので、ブース内を回っていたら、たまたまボブスレー・リュージュ・スケルトン部(以下、BLS部)の部長さんがいたんです。もともと競技自体は知っていたので、興味本位で説明を聞きに行ったのですが、春休みと夏休みの4カ月間は練習がないって言われて、めちゃくちゃいいなと思って(笑)。それで「よかったら見学に来る?」って誘われて、行くことにしました。あとは、当時は体育教師になりたかったのですが、(BLS部の練習が)ウエイトや走力系のトレーニングがメインだと聞いて「太っているよりも締まっている教師のほうがカッコいいよな」と思ったのも理由の一つです。なので、オリンピックに出たいとか、そういった気持ちは全くなかったですね。

スケルトン・髙橋弘篤選手

―もちろんそれまで競技経験はなかったんですよね。

全くなかったです。でも、小学校ではドッジボール、中学と高校では野球とチームスポーツをやってきましたが、大学は個人スポーツにもトライしたいなという気持ちも少しあったんですよ。そのタイミングで、BLS部の話を聞いて、競技の新鮮さにパッと惹かれたのもありました。あと、僕は最初ボブスレーをやりたいと思って入部したのですが、ボブスレーって18歳以上じゃないと国際大会に出られないんです。みんなスタートラインが一緒なので、「よーいどん、で勝負できるじゃん!」って思ったのもありましたね。

スケルトン・髙橋弘篤選手

―そこからどのようにしてスケルトンを始められたのですか?

僕が入部する前の年に、1つ上の先輩がボブスレーで大転倒して、大きなけがをしっちゃったんですよ。ボブスレーのそりって大きいですし、これは少し危ないということで、僕らの学年からはボブスレーをやりたい選手でも、必ず1年目はスケルトンをやりましょうということになったんですね。まずはスケルトンで滑ることに慣れて、2年目以降からボブスレーをやりたい人は転向するという決まりになったので、最初は嫌々スケルトンをやらされた感じです(笑)。その後、僕らの学年の人数が多かったのもあり、インカレが開催されることになりました。そしたら、そのインカレでたまたま3位になって、その次のシーズンのジュニアのナショナルメンバーに選んでもらいました。それでスケルトンを続けようということになりました。

―やっぱりボブスレーに挑戦してみたいという気持ちはなかったのですか?

もちろん最初はありましたね。なので、1年生のときも、体験がてらちょこちょこ先輩に乗せてもらったりしていました。ただ、スケルトンでナショナルメンバーに選んでもらえたことは、ある意味、日本代表になったということ。国際大会に出られるとなると、特待生を狙える可能性も出てきて、そしたら学費が免除になるかもしれないし、しかも海外にも行ける。実は僕、高校では国際コースに通っていて、海外への憧れがすごくあったんですよ。パスポートを作って、外国に行けるかもしれない。そんな思いもあって、スケルトンを続けることに決めました。

Skeleton Racer’s Daily Life〜1分でスケルトン紹介〜(髙橋弘篤選手YouTubeチャンネルより)

 

―大学卒業後はクラブチームに加入し、2010年には全日本選手権で初優勝されました。

大学を2007年の3月に卒業して、その年の6月に長野のクラブチームが発足しました。それから3年後に全日本選手権で優勝させていただいたのですが、個人的にはそこまで大きな喜び、達成感のようなものはなかったですね。というのも、クラブチームでは24時間、365日、スケルトン漬けの生活をしていたので、競技にかける時間も、お金も、他の選手たちとは倍以上違いました。そう考えると、優勝したのが遅いぐらいだったので、どちらかと言うと安堵感のほうが強かったです。

スケルトン・髙橋弘篤選手

(提供:KYODO NEWS)

 

―オリンピックには、14年のソチ大会、18年の平昌大会と2大会連続で出場されました。

実は2010年のバンクーバー大会も、応援で現地に行っていたんです。そこでオリンピックの雰囲気に鳥肌が立って、ここで自分も競技をするんだというスイッチが入りました。なので、バンクーバーからソチまでの4年間は、そこだけを目指してやってきたという感じでした。ただ、実際にオリンピックに出たら、準備したことは出せたのですが、「どうしてここをもっとうまくできなかったんだろう」といったじれったさが残って。入賞を目指したのに、12位で終わったということもあって、達成感はありましたけど、うれしさはなかったですね。これまでは日本連盟の強化委員長がレールを作ってくれて、自分はそこを歩くだけだったのですが、次の4年間は自ら旗振り役となって日本チームを引っ張っていこうと決めました。ただ、平昌大会が目前に迫った17年の夏に強化委員長が退任されてしまい、即席チームでオリンピックを戦わなければならなくなりました。オリンピックの現場をいちばん知っているのが僕だったので競技以外の部分でも神経を使わなければならず、鼻から勝負にならなかった。結果も22位と惨敗に終わりました。

―髙橋選手が思う、スケルトンの魅力とは何でしょうか?

僕らは冬がシーズンで、春から秋までは全く滑りません。なので、この期間は丸ごとトレーニング期間になります。この半年間、どういったプロセスでトレーニングをしていけば、冬にいい成果が出せるか、そのトライアンドエラーを毎年のように繰り返すんですよ。前の年と同じようなことをしたからといって、必ずしも良くなるわけではないし、あまり認知されてない競技でもあるので、多角的なデータに基づいたエビデンスもまだ確立されていない。だからこそ、自分と向き合いながら、いろいろなことにトライして変化を生み出す、そうしたチャレンジができるところに、僕は魅力を感じています。

スケルトン・髙橋弘篤選手

スケルトン・髙橋弘篤選手

―トレーニングにおける難しさは、どんな部分にあるのでしょうか?

大学生のとき、とにかくムキムキになればいいと思って、夏場に一生懸命ウエイトトレーニングをしていました。でも冬にいざ滑ってみると、なかなかタイムが出ない。それはなぜかというと単純で、スケルトンという競技特性に合ってないトレーニングをずっとしていたんです。そもそも、そりを押して走るということ自体が、ものすごく特異性のある動作なのにも関わらず、僕の股関節周り、肩周りの柔軟性が全くなかったんですよ。だから長野のクラブチームに加入して最初の3年は、プロのトレーナーさんからの指導で、とにかく体をほぐすメニューを中心に行いました。体の可動域をとにかく広げて、筋肉の柔軟性、弾性を高めていく。最初は自分にもプライドがあって、100パーセント受け入れることはできなかったのですが、3年ぐらい経ったら、今までできなかったことが一つ、また一つとできるようになっていきました。先ほど、自分自身と向き合うことが魅力だとお話しましたが、自分のそれまでの固定観念、既成概念を一旦振り払って、新しいものをインプットしようとする気持ちをどのぐらい持てるかも、競技力を向上する上で重要なことだと思っています。

 

▼プロフィール
髙橋弘篤(たかはし・ひろあつ)◎1984年4月13日生まれ、富谷市出身。仙台大学でスケルトン競技を始める。2010年12月に全日本選手権で初優勝すると、11、12年も制し、3連覇を達成。全日本プッシュ選手権では、12年から17年までの6連覇を始め、通算8度の優勝を誇る。オリンピックには14年ソチ大会、18年平昌大会の2大会に出場。現在は妻、子ども2人と大崎市で暮らす。

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Photo by 渡邊優

郷内 和軌
郷内 和軌

1992年10月14日生まれ、岩手県一関市出身。一関第一高校卒業後、仙台大学体育学部スポーツ情報マスメディア学科に進学。アルバイト等で執筆経験を積み、2015年4月より岩手県盛岡市の制作会社「(株)ライト・ア・ライト」に入社。地域限定スポーツ誌「Standard」の制作等に携わり、2019年4月よりフリーランスとして活動中。