
元Jリーガー、解説者・田村直也×中継リポーター村林いづみ【前編】
Interview
FOOTBALL
(提供:ラインメール青森FC)
「挫折を味わって、そこから伸びる。その繰り返しの人生です」と自らの歩みを振り返る、元サッカー選手の萬代宏樹さん。サッカー人生で最も悩んだ「初めての移籍」から日本全国を巡る旅が始まりました。悩み抜きながらもチャンスは逃さず、周りに支えられてきた彼の人生の分岐点を振り返ってもらいました。
―ベガルタ仙台では2007年までの4年間を過ごし、J1ジュビロ磐田への移籍を決断します。
「いろいろな感情があるんですけど、オファーが来た時は素直に嬉しかったです。その年は試合に出ていて、結果も出せていました。ステップアップしたいという気持ちは仙台に入った時からあって、もちろん仙台でJ1に上がりたいという思いもありました。嬉しい悩み、考えるとだんだん苦しくなっていきました。
仙台にいたかったのは事実です。でもジュビロは魅力的なチームで、当時中山(雅史)さんがいて、名波浩さんも来る。(川口)能活さんもいた。好きなチームでした。同世代を見れば、世代別代表で一緒にやっていた選手たちもいるし、みんなレベルが高い。そこで、すぐに試合に出られるとは思っていないし、きつい日々が続くだろうと。それでも決断したのは、『きつい方はどっちだろうか』と考えたからです。」
―きつい方を選んだのですか?
「仙台にいる方が楽というか……。基盤もできたし、試合にも出られて、点も取れて評価もされている。街も楽しく住みやすい。選手とも仲がいい。ジュビロに行けば、日本代表クラスの選手がいて、厳しい。初めての移籍。知っている人はほぼいないという状況でどっちが自分は人として、選手としてきついんだろうかと考えました。『成長できるか』ということではなく、『どっちが厳しいの?』と。当時の変な使命感なんですけど、やっぱり厳しい方にいかないと、自分が納得しないと思ったんです。最後はそこでした」
―厳しい決断でしたね。
「2007年当時は(望月)達也さんが監督。翌年は(手倉森)誠さんが監督で(手倉森)浩さんがコーチ。みんな仲良しだし、素晴らしい指導者。そりゃ楽しいよ、と。でも評価された中でベガルタに残ったら自分が甘えてしまうんじゃないかと考えました。移籍を決断して、最後に丹治さんに報告した時に泣いてしまって。僕が号泣すると、丹治さんも泣いて……。誠さんに泣きながら報告に行ったら、『お前、自分で決めたことなのになんで泣いているんだ(笑)』と笑われました」
その後の人生を決める悩ましい決断。より厳しい道を選んだ
―泣き虫の萬代さんらしいですよ。そうした経緯は一切明かさず、移籍しましたね。
「仙台のサポーターに対しては、ちゃんと挨拶もしないまま移籍してしまいました。当時の僕を知っている人は、今は少ないかもしれないけれど、それだけが心残りです。いつかスタジアムで挨拶をしたいです、本当に」
―当時のことを思い返すと、シーズン終盤は悩んでいる様子が取材しているこちらにも伝わってきて声をかけられなかったですよ。
「そうですね。しかも最後2試合は出場停止になって試合に出られず、J1昇格に貢献できなかったという悔しさもあるんです。『お前が試合に出られていたら……』と言ってくれる方もいましたし、『あの2試合で昇格が叶わなかったのに、チームを出ていくのか』と思った方もいると思うんです。いろんな思いがあるんですよ」
―もし移籍を決断しないで、仙台に残っていたら違う人生でしたか?
「考えたこともないですね。仙台で楽しくやっていましたが、ジュビロでも楽しかったんです。僕は現役生活で結構移籍をしているんですけど、移籍してきて良かったなって思っています。一方で、(富田)晋伍や梁(勇基)さんみたいに一つのチームで長く続けられるのも良いと思う。そういう人生でも楽しむことができていたはず。どっちの道を歩んでも最高と思えていたんじゃないかな」
どの人生でもきっと楽しめている。そう自信を持って言える日々を過ごしてきた
―2008年、ジュビロで自身初のJ1を経験しましたね。
「ジュビロに行った時は練習が楽しかったです。みんな上手くて、僕に良いパスをくれる人が多かったから。でもその分、反省もあるんです。周り頼みというか『ここに動けばパス出てくるよね』と甘えてしまった。走っていれば、名波さんが一番いいところにパスをくれるから点が取れてしまう。これは本当に楽しかったですよ」
―FW陣だけを見てもそうそうたるメンバー。同じポジションで言うと前田遼一さんも在籍していました。
「僕がジュビロに入った当時、前田さんは長期のけがをしていました。開幕に間に合わず、カレン(ロバート)もけがをしていた。ジウシーニョは僕と同時に入りました。ジュビロに来たばかりで、高いレベルの中、まさか試合に出られるわけがないだろうと思ったら、キャンプで絶好調だったんです(笑)めっちゃ点が取れました。アシストしてくれる他の選手のおかげです。ゴールを評価してもらって、開幕からずっとスタメンでした」
―ラッキーボーイですよね。
「本当に毎回キャンプは調子がいいんですよ(笑)当時の監督、内山篤さんもずっと起用してくれました。当時は常勝軍団のジュビロに、移籍してきたばかりの若手FWが出ているという状況。残留争い手前の成績でした。批判的な声もあったと思うんですが、それも気にならないくらい楽しくサッカーができていました」
古巣の仙台と入れ替え戦で対戦する。マッチアップしたのは、仙台でともにプレーした田村直也さん(提供:KYODO NEWS)
―そして、その2008年最後には、古巣ベガルタとの「J1J2入れ替え戦」が待っていました。
「なんでこんなことになるんだ! と思いました。当時、スカパー!でJ2の戦いを見て、『仙台、行け!昇格しろ!』と応援していたんです。J1では(順位を争う)ジェフ千葉が大逆転し、ジュビロが入れ替え戦に出ると決まったのは最終節でした。ジュビロは夏に監督交代があって、ハンス・オフト監督が就任。夏以降はリーグ戦に全く出られなくなりました。それでも入れ替え戦の2試合はベンチに入り、どちらも途中から出場しました」
―ユアスタでの第1戦、萬代さんは後半15分に投入されました。対戦相手としてピッチに入った時のスタジアムの雰囲気は覚えていますか?
「FKだったかな。チャンスのタイミングで、スタジアムが盛り上がっていたんです。これは試合の盛り上がりなの? それともブーイングなの? とちょっとわかりづらかったので、そこで落ち着いて試合に入れたというところはありましたね。ブーイングが嬉しいという人もいるんですけど、仙台のサポーターから思い切りブーイングを浴びたら僕はきついですね」
―試合後、仙台サポーターのところには、挨拶に行けましたか?
「ヤマハスタジアムでの第2戦の後、ジュビロでチームとしてスタジアムを一周して、仙台サポーターのところへも行って挨拶をしました。あまりサポーターさんの顔をちゃんと見ることはできなかったんですが、手を振ってくれた方もいました。すごく嬉しかったことを覚えています。あの日、仙台は敗れてしまったけれど、そんな中でも手を振ってくれるんだって。仙台のサポーターは温かいと思いました」
―ユアスタでは挨拶できなかったですよね。
「最近ではよく古巣のサポーターのところに挨拶にいくということがありますけど、当時はまだそういう文化もなかったかもしれないですね。僕はあの時、行けなかったです。仙台との入れ替え戦は本当に過酷な経験でした」
震災があった翌年に山形へ。今こそ東北の力になりたいと強く思った(提供:KYODO NEWS)
―ジュビロ磐田でプレーした後、サガン鳥栖、ザスパ草津(現・ザスパクサツ群馬)へ。そしてやはり東北との縁があり、2012年にはモンテディオ山形に移籍しました。
「縁なんですよね。僕もそう思います。その前の群馬の時は、出場試合数は多くなかったですが点が取れていました。ステップアップを目指せればいいなという時に、J1からJ2に降格したばかりの山形から声がかかりました。オファーが届いたのが、東日本大震災が発生した2011年。自分がその翌年に東北に戻る、これは運命だなと思いました。群馬も好きでしたし悩みました。でも東北人の自分が『東北のためにプレーをする』。このタイミングで東北からオファーが来るということは、そういうことだと思いました」
―そうして山形に行くと、ベガルタでも一緒にプレーした中島裕希選手(現・町田ゼルビア)との再会もありました。
「山形への引っ越し1週間前に財布を無くしました。免許もなくて運転できなくて、困っていたら裕希さんが全部送り迎えをしてくれました。裕希さんは一歳年上ですが、敬語を使ったことはないですね。ずーっと一緒にいました。365日中、300日は一緒にいたと思います」
天皇杯第4ラウンド、延長戦でサガン鳥栖を下した。萬代選手、値千金のゴール(提供:KYODO NEWS)
―山形での4年間では、J1昇格や天皇杯準優勝も経験しましたね。
「いい経験をさせてもらいました。印象的だったのは2014年です。大事なところで点が取れました。でも昇格に関しては悔しい思いを味わっているんです。昇格プレーオフの一戦目、ジュビロ磐田と対戦して、ギシさん(GK山岸範宏さん)がヘディングで劇的なゴールを決めた試合には出られました。次の試合もメンバーに入ると思っていたんです。でも移動のバスに乗る直前で、監督の石崎(信弘)さんに呼ばれて『バン、今回はすまん』と。チームとしてJ1昇格を決めることができたので嬉しかったですが、そこにいなかった悔しさはありました」
―天皇杯も活躍しましたが、決勝の舞台には立てませんでした。
「石崎さんのことは大好きで本当に尊敬しているし、あの人の考えなら納得できます。天皇杯でも3回戦のソニー仙台戦でゴールを決めて勝てた。鳥栖戦でも延長戦で点を取った。でも僕は残りの準々決勝、準決勝、決勝には出られなかった。選手として、その悔しさは持っていました。でも山形も本当に楽しかったです。チームのメンバーが、特に仲が良かったんです。スタッフも含めて。これが山形の良さだと思いました。だからこそ、あの年は一体感を持ってJ1昇格ができ、天皇杯準優勝もできたと感じました」
8チーム目は、JFLのラインメール青森。東北に縁は深い(提供:ラインメール青森FC)
―水戸ホーリーホックやAC長野パルセイロ、Jリーグの様々なクラブを渡り歩きました。そして選手生活の最後の3年間はJFLのラインメール青森FCで過ごします。ホーム最終戦で劇的なゴールを決めましたね。
「その話、止まらなくなりますよ(笑)2年連続でゴールが取れず、最後の年は試合にも絡めていませんでした。2021シーズン限りでの引退を発表してから、2試合目。周りからも『バンさん絶対出番あるよ』『点を決めてね』と言われていました。対戦相手はFC刈谷。でも試合が始まったら0‐2で負けていました。この日の試合後には、僕の引退セレモニーが予定されていて、このままでは空気的にも殺伐としたセレモニーになっちゃうなと……。ベンチに声がかかって出番がきました。やってやろうと思ってピッチに入ったら、仲間が2点ポーンと返してくれて、これは行けると思いました。自分が点を取るというよりは、チームが勝つことを一番に考えていました」
―2-2で迎えた後半アディショナルタイムでしたね。
「僕のゴールが決まって……。みんなが僕のところに来てくれるんですよ。『あぁこれだな。自分はこのためにサッカーをやっていたんだな』と。FWって、点を取ってみんなに喜んでもらうことが一番楽しいんだって。スタンドのみんなも喜んで盛り上がってくれた」
ゴールを決めるその瞬間にサッカー選手としての喜びが詰まっている(提供:ラインメール青森FC)
―全てが報われる瞬間ですね。
「試合後に控えていた引退セレモニーの挨拶で話すことは暗記していました。泣かないでちゃんと話そうと。泣く訳がないと思っていたんですが、試合が終わって泣きそうになりました。ゴールをしたことで、覚えた挨拶も全部飛んでしまって……。親のことや家族のことを話したら泣いてしまいました。最後にゴールを決めたことで、気持ちよく引退できました。2年連続無得点では、もやもやした気持ちが残っていたかもしれない」
―選手としての記録に刻まれた2021年の「1得点」には選手人生の重みが集約されています。
「本当にそうですね。妻も『これがあるから、いいよね』って喜んでくれました。青森でゴールを見せることができていなかったんです。子どもたちにもそうでした。最後の年は試合に出ている姿も見せることができなかった。ゴールを決めたその日は幼稚園のママ友たちも来てくれた試合でした。そこで決められたのが最高です」
―奥様も本当に支えてくれましたね。
「そうですよ。あれだけ移籍を繰り返して……。ジュビロの頃から一緒に暮らしていて、毎年のように移籍を繰り返しました。鳥栖、群馬、山形、水戸、長野、青森と。シーズンのスタートが早いと、僕だけ先に行って、引っ越しや後のことは任せっきりです。生活ペースは不規則だし、でもご飯のことはちゃんとやらなきゃいけないとか、プレッシャーもあったと思います。子どもが生まれてからはなおさら大変だったはずです。夫婦で力を合わせてというより、ほぼ妻の力ですね」
―心強い一番のサポーターですね。それにしても本当に日本全国を巡りました。地元を離れたくないって言っていた少年だったんですけどね。
「成長できたんですね。鳥栖に行ったあたりから社交的になり始めたんです。山形に行ってからそれが加速して、その辺のおじさんとも話せるようになりました。隣で畑仕事をしているおじちゃんが『がんばれよ』と声をかけてくれました。今でも年賀状のやり取りをするくらい仲良しです。長野では、家に招いてくれたサポーターさんがいて、家族ぐるみで仲良くしてもらいました。それが楽しくてしょうがない。元々、人が大好きだから、いろんな人と話したい性格なんです。また全国、お世話になった土地を挨拶でまわりたいです」
仙台での新しい日々、これからも自分らしく進んでいく
―サッカー選手として過ごしてきた中での財産はどういうものでしたか?
「サッカーを通して、人として成長できたこと。そして選手として歩んできた中で、出会った人たちすべてが宝物です。引退しても、また違った形で再会できます。選手もそうですが、選手以外でも地域の方々にお世話になって、応援してもらえたことがとても嬉しかったです。『あの時、あのゴールを決められた』という思い出はありますが、その時々で街の方々に支えられたから18年も続けられたんです。僕一人ではこんなところまでは来られなかったですね」
寂しがり屋だからこそ、全国各地で人を愛し愛されたサッカー選手、萬代宏樹さん。いつかお世話になった全国のスタジアムへ感謝と引退の報告をしに、萬代さんは新しい旅に出るかもしれません。東北に軸足を置く新たな人生でも、関わる人たちの縁を大切に進んでいってくださいね。
Photo by 渡邊優
フリーアナウンサー、スポーツキャスター。2004年からラジオでベガルタ仙台のトーク番組を担当し、2007年よりスカパー!や DAZNで中継リポーターを務める。ベガルタ仙台レディースは2012年のチーム発足時より取材を開始。ヒーローインタビューと勝利の祝杯を何より楽しみにしている。