仙台スポーツ
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Interview

FOOTBALL

東北を誇り、日本を一周した18年のプロ生活。挫折の度に這い上がったサッカー選手・萬代宏樹【前編】

2021年、一人のサッカー選手が現役生活に別れを告げました。JFL・ラインメール青森FCのFW萬代宏樹さんです。福島県で育ち、2007年ベガルタ仙台でプロになった彼は、18年間の現役生活で日本全国を渡り歩きました。モンテディオ山形で成熟し、最後は雪国の青森で結んだ山あり谷ありのサッカー人生。「長い旅」を終えて仙台へ帰ってきた彼に、大好きなコーヒーを味わってもらいながらお話を聞いてきました。(全2回)

 

―現役生活、お疲れ様でした。久しぶりの仙台はいかがですか?

「やっぱり仙台は懐かしいです。休みの日に地下鉄を使って街中に出てみて、『あ、ここにお店ができている!』とか『(仙台駅)東口がこんなに栄えている』とか(笑)新たな発見もありましたね」

―仙台での生活は15年ぶりですか?

「そうです。2007年以来ですから。その間にいろいろなチームに行って、北は青森から南は鳥栖まで、ほぼ『日本一周』してきたようなものです」

―サッカー選手としての現役生活を終えて、新しい人生へ。次のステップは決まりましたか?

「いろんな人の話を聞いて、サッカーとは全く別の業種にも挑戦したいと思いました。でも現役引退の日が近づいてくるにつれて、『やっぱり僕にはサッカーだな』と。サッカーを自分から切り離してしまうことは考えられず、サッカーに携われる仕事を探していました。現役時代に指導者になるというイメージや選択肢はなかなかなくて。どこかのアカデミーでコーチを始め、行く行くはトップチームの指導者にという未来はイメージできなかった」

萬代宏樹

サッカーの楽しさを多くの子どもたちに伝えたい。自らも子育て中、2児の父

 

「本当にやりたいことを考えた時に浮かんだのは『子どもたちに教えたい』ということでした。それも指導ではあるんですが、子どもたちと一緒にサッカーを楽しくやりたい、技術や戦術の前に、楽しむということを教えたい。僕がサッカーを一番楽しんでいたのは幼稚園の時でした。その頃の純粋な気持ちも思い出したいし、子どもたちにサッカーの楽しさが伝わっていけばいいなと思っています」

―新しいキャリアはどのようにスタートするのですか?

「僕が入社したのは『リーフラス株式会社』というところです。様々なスポーツビジネスを展開していて、サッカーだけではなく子どもたちに様々なスポーツ指導を行っている会社です。サッカー以外にもバスケットボールや野球など、それらをミックスした多種目のスクールもあります。そこで僕の高校の同級生が働いているというご縁がありました。プロスポーツのキャリアがある人材を求めていて、僕もそこで働くというイメージが合致しました」

リーフラス株式会社 公式Webサイト  https://leifras.co.jp/

萬代宏樹

18年間続けたプロサッカー選手。現役引退という大きな決断に後悔はない

 

―18歳から18年間のプロサッカー選手人生。現役を終えるのはどのような決断でしたか?

「1シーズン前からいろいろ考えることがありました。2020シーズンは1年間無得点だったんです。そのダメージが個人的にはとても大きかった。体力的な問題やけがではなく点が取れなかった。その次の(2021)シーズンも取れませんでした。もっとやらなきゃと思うけど体がついてこないこともあった。引退を決めた時に、家族がいる以上無職にはなれない。リーフラスさんともお話をさせてもらいました。準備を整えていたので後悔なく決断できました」

―いろんな人に相談をしたのですか?

「相談すると周りに流されてしまうんです。ベガルタからジュビロに行く時も、いろんな人の話を聞きすぎて考えがまとまらず『あー、もうだめだ!』と思いました(笑)決めるのは自分だし、家族なので。引退は妻とだけ相談して決めました」

―萬代さんのこれまでの歩みを振り返って頂きます。サッカーはいつから始めたのですか?

「幼稚園では遊びでやっていて、本格的に始めたのは小学生。小1から小3までスクールに通っていました。父が野球派だったんです。『3年間サッカーをやらせてあげるから、スポ少はソフトボールに入れ』と。わかったと返事をしたものの、サッカーが楽しすぎたし、当時はJリーグが開幕した頃でした。みんながサッカーに流れた時代で、父も許してくれました」

―二本松第一中学校では優勝も経験しています。

「県大会で上に行ければいいねという成績だったんです。でも僕が3年生の時にトントントンと勝ち進んで、福島県で優勝。『全中(全国中学校体育大会)に出られる!』と喜びました。その前に出た東北大会でも優勝できました。そうなるともう、天狗です。全中で対戦相手が関東7位のチーム。こっちは東北1位、余裕だと思って対戦したら、ボコボコにやられました(笑)それまでは井の中の蛙です。そこでレベルを上げたいなと真剣に思いました」

萬代宏樹

挫折があって、伸びるということを繰り返してきたサッカー人生。その中で必死に頑張ってきた

 

―そして、いくつかのオファーがあった中で福島東高等学校に進学します。

「僕は地元から離れたくなくて……。寂しがり屋だったんですよね、本当に。仲の良い友達も大勢いたし、そこから離れるのは厳しいと思いました。当時は大学に進むつもりだったので、進学校の中でサッカーが強いところと言えば福島東だったんです」

―その福島東高校でエースとして活躍しました。

「福島東に入る数週間前にU-15日本代表候補合宿に、初めて呼ばれたんです。僕は早生まれだから、メンバーはみんな1学年年下の代。東北からは僕一人だけだったんですが、合宿に行って何にもできなかったんです。みんなめちゃめちゃ上手くて。ガンバやマリノスとか、Jリーグチームの下部組織の選手も来ていました。引っ込み思案な東北人で、友達もできなくて(笑)そこでも挫折を味わって高校に入ったんです。でもこの合宿の後に、僕はプロを目指したいと思うようになりました」

―ここでも挫折からより上を目指す道を選びましたね。

「福島東の齊藤勝監督(現・郡山商業高校監督)に『お前、プロになりたいのか?』と聞かれ、『なりたいです』と答えました。その時にはもう大学進学は考えていませんでした。齊藤監督は『お前が本気でなりたいなら、俺は全力でサポートする』と。進学校で勉強もしなければいけない環境でしたけど、監督がそこまで言ってくれるんだと感動しました。監督のその言葉がなければ、別の人生だったかもしれません」

―高校時代は世代別代表に選ばれ続けていましたよね。

「それは(高校サッカー)選手権での結果が大きかったですね。人生「まさか」ばかりですよ。中学校で優勝したり、高校2年の選手権でベスト8まで行くとは思わなかったし。いろんなことがラッキーだったんです。当時、福島東は無名の高校だったので、そこが強豪を倒して勝ち進んだので注目をされた。その中で一番、点を取ったのは僕だったというだけで……」

―「自分の活躍でベスト8まで上げた」とは思わなかったですか?

「そんな考えになれるわけないじゃないですか(笑)福島東は守備の堅いチームだったんです。みんなが頑張ってくれる鉄壁の守備があって、最後に点を取るのが僕という。必死に守っている後ろの選手たちは、『こんなに頑張っているのに、インタビューでテレビに映るのは最後に点を取ったお前かよ』って思っていたでしょうね(笑)」

ゴールを決めコーナーフラッグをつかむパフォーマンスには、ストライカーの先輩、佐藤寿人さんへの尊敬を込める(提供:ベガルタ仙台)

 

―高校卒業後はベガルタ仙台へ入団。どのタイミングでオファーが来ましたか?

「高校2年の選手権で名前が売れて、3年生のインターハイ予選に当時スカウトだった丹治(祥庸)さん(現・モンテディオ山形ゼネラルマネージャー)が見に来ていました。高校を取材してくれていたスポーツ記者の方が『ベガルタのスカウトだよ。今日頑張りなよ』と耳打ちしてくれました(笑)緊張しちゃいました。その頃から気にかけてもらっていて、実際にオファーが届いたのは高校3年生の秋ですね」

―他のチームからもオファーが届いた「争奪戦」の中、仙台を選んだのはどういう理由でしたか?

「地元に近かったですし、僕がお話をもらった時(2003年)の仙台はJ1、強かったです。実際の試合を見に行った時のスタジアムの熱狂、あの空気が忘れられないです。残留争いをしていたけど、京都に3-1で勝って(佐藤)寿人さんが点を取っていたんです。興奮しましたね」

―入団した年は2004年。ベガルタは前年に降格が決まり、プロ生活はJ2からのスタートとなりました。当時のベガルタはどうでしたか?

「いや、怖かったですよ(笑)名だたる先輩たちの中に高卒の自分が入って、気軽に話せるわけはないです。その時キャンプでは、関口(訓充、現・南葛FC)、大河内(英樹)、(中田)洋介さん(現・盛岡商業高校監督)とずっと一緒にいました。練習ではみんなレベルが高いから怒られるし、ついて行けない。ルーキーは最初4人。後に梁(勇基)さん、樋口(昌俊)が入ってきました」

―「ついて行けない」と言ってたルーキーが、開幕戦にいきなり出場しました。

「その年、ズデンコさん(ベルデニック監督)によく使ってもらっていたんです。キャンプ中に、一つ良いプレーをした。それで気に入ってもらっていたという印象がありました。最初は1年目から試合に出られるなんて思っていなかったです。1試合位出られればいいやって。でも、選手となった以上は試合に出たいという欲が出てきました。チームとしても個人としても結果は出なかったですけど1年目から試合に出られたことは良かったです」

萬代選手がゴールを決めると、仲間が駆け寄りスタジアムが歓喜に包まれる。隣は梁選手(提供:ベガルタ仙台)

 

―当時の同期や仲間たちは仲良しでしたか?

「関口は見ての通り、独特のリズムがありました。大河内は菅井さん(直樹、ベガルタ仙台地域連携課スタッフ)とずっと仲良し。僕は中原さん(貴之、ベガルタ仙台ユースコーチ)と一緒にいることが多くて、そこに梁さんや洋介さんがいて、という感じでした。入団したてで車がなかった時、ずっと中原さんに送り迎えしてもらって、昼ご飯も毎日ご馳走してもらいました。面倒をよく見てもらって、プロってすごいなって思いました。僕が車を持ってからは、『もう全然俺と一緒に行ってくれないね』って言われました(笑)お世話になりましたね」

―当時の先輩たちがベガルタ仙台で指導者やスタッフと、様々なポジションで力を注いでいる中、梁さんは選手として鳥栖から仙台に帰ってきましたね。

「最高ですよ。梁さんが仙台に戻ってくるという時は『えー?』って嬉しい驚きがありました。オファーが来るということは、梁さんの人間性だし、実力です。梁さんでなきゃ、オファーも出さないと思う。すごいなって改めて思いました。しかも2年間空いてしまったけど背番号『10番』をつけるというのがまた良いですね」

J2ベガルタ仙台で、気の合う仲間とともに楽しくサッカーをしていた萬代さん。仙台のエース的存在に成長し、充実の日々に舞い込んだのは「J1ジュビロ磐田からの獲得オファー」でした。プロ4年目、サッカー人生の中で最も悩ましい、大きな決断をします。(続く)

 

【番外編】

萬代宏樹

萬代宏樹

萬代宏樹

コーヒー好きな萬代さんに「コーヒー豆の焙煎体験」をしてもらいました。仙台市青葉区の珈琲飲み処「いりたてや」能澤充さんのご指導で、コーヒーの生豆を炒っていきます。
「この一杯でどのくらい淹れられますか?」「焙煎器を振るタイミングは?」萬代さんは積極的に質問します。香ばしい香りが漂い、緑の生豆が茶色に色づくと完成。粉にしてもらって「萬代ロースト」を味わうと笑顔に。「香りが良くて、苦みがすっと抜けていきますね」と萬代さん。新しい日々、趣味の時間も充実していきそうですね。

萬代さんのYouTube「バンダイ⚽️チャンネルBANDAI OFFICIAL

 

Photo by 渡邊優

村林いづみ
村林いづみ

フリーアナウンサー、スポーツキャスター。2004年からラジオでベガルタ仙台のトーク番組を担当し、2007年よりスカパー!や DAZNで中継リポーターを務める。ベガルタ仙台レディースは2012年のチーム発足時より取材を開始。ヒーローインタビューと勝利の祝杯を何より楽しみにしている。