
地元宮城でサッカーができた喜び。愛し愛されたサッカー選手・小野瞳さんの歩み【前編】
Interview
FOOTBALL
宮城県仙台市出身の元サッカー選手・中田麻衣子さん。13年間の現役生活後は地元宮城に戻り、現在は一般社団法人ソルファクション代表として、女子サッカーの普及活動等を精力的に行っています。が、驚いたことに「サッカーの指導自体には全く興味がなかった」といいます。
「女子サッカー選手という職業があることを伝えたい」。一方、「サッカーやスポーツを通して、震災後に顕著な子どもたちの運動能力の低下など宮城県民全体の健康課題を解決したい」と語る中田さん。サッカーが好きだからこそ大切にしたい想いとは……。
インタビュー前半は、今の中田さんの活動の原点であるサッカーとの出会い、現役時代を振り返ります。
ー仙台生まれ仙台育ちの中田さん。幼いころからスポーツは好きでしたか?
「はい。私は、姉と弟2人の4人きょうだい。さらに従兄弟が11人いるんですが、年齢が近い従兄弟は全員男の子なので、大勢で外で遊ぶ機会がたくさんありました。今はダメですけど、当時は家の前でサッカーしたり、バスケットをしたりしていました。とにかく身体を動かすことが好きでしたね」
―どんな子どもでしたか?
「結構おてんばだったと思います。よく顔に傷を作っていました。スーパーで母親と買い物に行った時、勝手に母親を鬼に見立てて1人で鬼ごっこを始めて……。母の買い物かごに顔を思い切りぶつけて流血、ということもありました(笑)」
(ご本人より提供)
中田さんがサッカーを始めたのは、常盤木学園高校時代。元日本代表・鮫島彩選手など多くのサッカー選手を育て「なでしこの父」と呼ばれる阿部由晴監督の下で、サッカー漬けの3年間を過ごします。
―小5から中学まではバレーボールをされていたそうですね。なぜサッカーに転向したのですか。
「高校入学前に、弟が所属していた中学校サッカー部の顧問の先生に、明日ジャージを着て学校に来いとグラウンドに呼ばれたんです。何するのかな? とグラウンドに行ったら、その日は常盤木学園高校のサッカー部との練習試合の日。部室にスパイクあるから履いてこい と言われ、わけがわからないまま常盤木側の選手として試合に出たのが始まりです(笑)。そのまま勧誘され入学前に入部しました。入試の面接の時はバレー部に入るって言ってたんですけどね(笑)」
―高校からサッカーを始めて選手になるって想像がつかないです……。
「私に関しては、本当に環境が良かったと思います。常盤木で初めてサッカーに触れて、先輩方が本当に上手な方ばかりだった。常盤木って今もそうなんですけど、先輩後輩の上下関係がないんです。変な話、1年生が神様で、3年生が働くみたいな(笑)。なので萎縮するということが全くなくて、純粋にサッカーの楽しさを感じられました。先輩方から可愛がってもらって、一緒に練習してもらって、いろいろ教えてもらって……。 先輩たちは『麻衣子を見てると初心に戻れるわー』と言いながら、たくさんアドバイスをくれました。朝練、昼練、夜練……放課後も遊びに行かず、ずっとサッカーをしていました」
ーまさにサッカー漬けの青春時代だったんですね。自然とサッカー選手になろうと?
「いえ、そうではないです。私、もともと美容師になりたかったんです。高校も行くつもりがなくて、中卒で入れる美容師の専門学校に行こうとしていました。親に高校は卒業してくれと言われて常盤木に行きましたが……。なので、ようやく美容師になれる! と、仕事をしながら通える専門学校に進学するつもりでした」
―そこからどういう流れでサッカー選手の道へ進んだのですか?
「3年生の高総体(高校総合体育大会)で初めて宮城県大会と東北大会で優勝できたんです。このまま最後の皇后杯(全日本女子サッカー選手権大会)で全国大会に行ってすっきり引退し、美容師の道に進もうと思っていたのですが、予選で敗退してしまって……。このまま(サッカーを)辞めたら絶対後悔すると思って、顧問の先生にやっぱりサッカーをやりたいとお話したところ、発足したばかりの岡山の湯郷Belleというチームを紹介していただき入団することになりました」
(ご本人より提供)
高校卒業後、岡山の温泉街に立ち上がったばかりのクラブ・岡山湯郷Belleで社会人としての新生活をスタートさせた中田さん。サッカー漬けだった高校時代とは異なり、仕事とサッカーの両立という難しいテーマに向き合うことになります。
ー仕事場は、温泉旅館。まさに自分もチームも仕事も環境も、何もかもが初めての状況で不安はなかったのでしょうか?
「行く前は、不安は全くなかったです。その世界を知らないので。施設、環境も最高に充実していましたし、サッカーができる! とワクワクしていました。でも、実際に行ってみたら皆さん上手すぎて……。宮間あや、福本美穂など日本代表の選手やU-19やユニバーシアード、年代の代表がいる。そんな中で私は萎縮してパニックになって、もう、走り方がわからないくらいになってしまいました」
―そこからどうやって浮上したんですか?
「あるきっかけがあったんです。岡山県の国体選抜を決める合同練習会です。常盤木の子が岡山に来た! と前評判が勝手に高かったのですが、国体スタッフの方に実際は何もできないところを見てもらって、いろいろ話をさせてもらいました。そうしたら『いいじゃん、もっと思い切りやれば』と言われて。あ、それか、そっちか、みたいな。そこで吹っ切れたというか、私は私らしくやればいいんだな、やらなきゃいけないんだなと気づきました」
―持ち前のスピード感のあるプレーが戻ってきたんですね。とはいえ、旅館の仕事との両立も大変だったのではないですか?
「今思えばとても大変でした。最初の3ヶ月は朝の厨房担当で、朝6時から仕事をしていました。最初は私たち、会社では厄介者っていう扱いだったと思うんです。あとあと話を聞いてみたら冗談混じりですが、平日の暇な時だけいて土日の忙しい時はいないサッカーする女の子でしょ、仕事では使えないから厨房で盛り付けだけ担当させておこうという感じでした。でも、コミュニケーションをとっていくなかで、フロントやってみる? と言ってもらえて。その後は7時からの仕事になりました(笑)」
―ハードな日々のなかで、オールスターに選ばれるほどの成長を遂げていますね。
「いろいろ自覚したんだと思います。なでしこリーグ(当時Lリーグ)の人たちと触れ合っていくなかで、自分の甘さに気づいた。もっとちゃんとやらなきゃいけないし、街のためにこのクラブがあるからそのためにもしっかりやらなきゃいけない。働かせてもらっている旅館でも理解してもらわなければ、認めてもらわなければ、と意識が変わっていきました。試合前ギリギリの時間まで働きましたし、試合後も夜の配膳をしてました。年末年始、GWなどの繁忙期も帰省せず試合のない日は働きました。職場の皆さんも最初はサッカーにあまり興味がなさそうでしたけど、そのうち仕事中なのに見に来てくれるようになって、試合の感想やアドバイスまでくれるようになって……街をあげて応援してくれていました。その変化が嬉しかったです」
―その後、一度学生に戻るという選択をされていますね。
「25歳で膝の内側側副靱帯を完全断裂しました。最後の年かなと思ってやっていましたし、このチームでできることはやり切った、思い残すことはないからサッカーをやめて仙台に戻ろうと思っていました。サッカーをやめてもなんとかなるでしょ、と最初は思ってたんです。でも実際にサッカーをやめて、当時勤めていた耳鼻科の受付の仕事だけの生活をやっていたら、もう、寝なくてもいいし、ご飯食べなくてもおやつ食べてればいいし……っていう、人間としてどうなの?という生活になって」
―抜け殻のようになった?
「はい。ずっとサッカーを中心にやってきたので、それがなくなった時に心にぽっかり穴が開くってこういうことなんだって思いました。振り返ってみると私は、目的があってそれに向かってがんばるという生き方をしてきたんです。サッカーを極めるという目標があったなかで、それを成り立たせるために仕事をしなきゃいけないという感覚だったんですけど、その目的がなくなってしまったら、あれ? って」
―生きる意味がわからなくなった?
「そうなんです。そんななか、たまたま職場の同僚の息子さんがサッカーをしていて、ちょっと来てくれない? と頼まれました。低学年の子どもたちとボール遊びをしたんですが、ボールを投げてキャッチするとか、ボールを投げて手を何回叩けるかなど、本当に簡単なことをやっただけで、『コーチ! こんなにできた!!』ってすごく嬉しそうに私のところに来る。その時に、嬉しいというか楽しいというか、『なに、この感情』って……。サッカーに関わり続けるとこういうことがあるんだ、サッカーに、スポーツに関わり続けたいという気持ちが芽生えました」
その頃、愛媛女子短期大学(現:環太平洋大学短期大学部)から、なでしこリーグを目指すチームを作るためまずは短大でサッカー部を立ち上げるので手伝ってほしいというオファーをもらった中田さん。「将来的にもサッカーやスポーツに関わる仕事がしたい」「そのための武器を身につけたい」という思いが芽生えていたこともあり、「取れるだけ資格を取ろう」と2009年、短大に進学します。日本サッカー協会公認のC級ライセンス、スポーツリーダー、スポーツプログラマー、ジュニアスポーツ指導員などスポーツ関係の資格を多数取得する傍ら、サッカー部の選手として、再びグラウンドでプレーすることになりました。
―なでしこリーガーから、できたばかりの短大のサッカー部。随分と環境が異なるなかでモチベーションは下がることはなかったのですか?
「最初は、正直ありました。みんな18歳、私25歳でジェネレーションギャップも大きくて。中には、小学校でサッカーやってましたっていう(サークルのようなノリの)子もいたので。入部して1ヶ月ほど経った時、愛媛県の大会があり、決勝で負けたんです。練習もろくにできていなかったので私は負けて当たり前だと思ったんですが、みんな泣いていて……。あ、そういう感情があるんだ、向上心があるんだ、だったらこの子達ともちゃんとやれるかもと思い始めました。またサッカーが純粋に楽しくなったんですよね」
―とはいえチーム全員のレベルを引き上げるのは難しかったのでは?
「そうですね。でも、サッカーは1人ではできないので。なるべく一緒にいる時間を多くしました。一緒にご飯を食べて一緒に筋トレして……。コミュニケーションをとるなかで、少しずつチームが出来上がっていきました」
ー短大時代は純粋にサッカーを楽しんだ時期?
「はい。サッカーって、そもそも相手ゴールにボールを入れるという目的が、自分たちのゴールに入れさせないっていう目的がある。でもそれは1人じゃできない、みんなと協力して初めて達成できることです。そこがサッカーの楽しみの一つだなと思います」
岡山、愛媛と新天地でのチームの立ち上げに関わってきた中田さん。「引退後もサッカーに、スポーツに携わり続けたい」という新たな夢に向かいながらも、「今」自分が楽しいと感じること=サッカーに向き合い続けた短大時代を経て新たな道を模索していたころ、東日本大震災が起こります。
(後編に続く)
Photo by 土田有里子
フリーアナウンサー。元ミヤギテレビアナウンサー。自然豊かで住みやすい仙台・宮城が大好き。休日の楽しみは娘たちとのスポーツ観戦。ジャーナリズムを専攻していた大学時代からの信条は、話し手である前に“聴き手”であること。仙台のスポーツ界に携わる方々の熱いストーリーをじっくりと伺っていきます!