
東京オリンピックで注目すべき宮城県にゆかりのある選手3人
Column
OLYMPIC
これまで日本は夏季オリンピックで441個、冬季オリンピックで58個と実に合計499個のメダルを獲得している。近年は選手強化が結実していることもあり、世界のメダル獲得競争上位に食い込み、大会期間中は連日メダル獲得のニュースに沸くようになった。しかし金メダルとなると夏季142個、冬季14個となり、更に都道府県別となるとその数はぐっと少なくなってくる。それだけ地元にとって金メダルは貴重で、感動をもたらし、そして語り継がれていく。宮城県からはこれまで3人の金メダリストが誕生。それぞれのヒストリーを振り返る。
実は宮城県出身の最初の金メダリストにして唯一の夏季オリンピックメダリストは、前回東京オリンピックに出場した重量挙げの三宅義信である。
1964年、前回の東京オリンピックで日本は16個の金メダルを獲得した。
三宅はその金メダル第一号となり日本のメダルラッシュに追い風をもたらした。
三宅は宮城県柴田郡村田町の出身で、競技を始めたのは高校二年生の頃。
元々は柔道のトレーニングの一貫として始めた重量挙げだったが、当時階級制がなかった柔道に比べ、体重で階級が分かれている重量挙げの方が小柄な自分に合っていると感じ、三宅は徐々に競技にのめり込んでいく。
県の高校総体で優勝し、高校卒業後は法政大学に進学。
決して練習環境が恵まれていたわけではなく、大家族に育ち幼い頃から学費を稼ぎながら練習していた三宅は、大学に入ってもアルバイトをしながらの競技生活となる。
それでも、法政大学在学中に出場した1960年ローマオリンピックで銀メダルを獲得する。
この後4大会連続で代表となるが、ローマ大会での銀メダルは三宅にとって悔しい思い出となり、その悔しさをバネに四年間準備し1964年に迎えた東京オリンピックでは見事金メダルを手にすると、続く1968年メキシコシティオリンピックでも連覇を達成した。
特にメキシコシティ大会では弟である三宅義行が同じ種目で銅メダルを獲得し、兄弟揃って表彰台に上がった。
同一大会同一種目で兄弟メダル獲得というのは日本では三宅兄弟の例だけだ。
三宅義信が前回の東京大会で金メダルを獲得し、三宅兄弟がメキシコシティ大会で兄弟メダルを獲得したのはもう半世紀も前のこととなるが、今でも日本のオリンピックの歴史を振り返る際に必ず登場する。
それだけ当時の人たちに多くの感動を与え、代々語り継がれている証左である。
三宅自身は引退後には指導者として多くの選手の育成に携わり、2020年の東京大会招致が決まるとなんと自身も現役に復帰しマスターズ大会に出場。
一時日本記録となる成績を出すなど、大会への注目度を高めるだけでなく、アスリートにむけても大いなる励みとなった。
最近ではコロナウイルスの影響で延期になった東京大会の選手たちに向けてコメントを出す等、自身にとって56年ぶりとなる東京オリンピックの応援に力を注いている。
フィギュアスケーターの選手寿命は決して長くはない。
多くのプレーヤー、特に女子は10代のうちに選手としてのピークを迎え、20代中盤には引退してしまう。
男子も女子ほどではないにしろ、やはり30歳までに引退するケースがほとんどである。
理由は体力面、経済面、プロとアマチュアの制度上の問題など複数の要因が挙げられるのでここでの詳述は避けるが、この選手寿命の短さというフィギュアスケート特有の事情によって、表彰台に立つ選手の入れ替わりが比較的激しいこともこの競技の特徴の一つとなっている。
今でこそフィギュア強豪国といえばロシア、或いは日本と答える人も少なくないだろう。
だが、それはあくまで最近の話だ。
そもそも日本が初めてこの競技でオリンピックの表彰台に立ったのは1992年、アルベールビル大会の銀メダリスト、伊藤みどりである。
続く1998年の長野オリンピックで日本は大きく順位を落とし、最高順位は女子の13位。2000年代に入ると、世界フィギュアスケート選手権、ISUグランプリファイナル、四大陸フィギュアスケート選手権など、五輪以外の主要世界大会においては本田武史や村主章枝などを中心に日本は好成績を残すようになる。
しかしメダルの期待がかかった2002年のソルトレイクシティオリンピックでは惜しくも本田が4位、村主が5位という結果に終わり日本は男女ともに表彰台を逃した。
そうして迎えた2006年のトリノオリンピック。
日本史上初の金メダルを荒川静香が手にすることになる。
荒川は東京都で生まれ幼少期に宮城県仙台市に転居。
水泳やエレクトーン、バレエなど、多くの習い事の一つとして五歳ごろからフィギュアスケートを始めた。
小学生のうちに三回転ジャンプを全てマスターし、中学生で出場した全日本ジュニア選手権では史上初の三連覇。
その後フィギュアスケートの盛んな東北高等学校に入学すると、高校一年生で全日本選手権に出場し優勝。
1枠しかなかった1998年長野オリンピックの日本代表に選出される。
しかし前述の通り結果は振るわず、13位に。
その後も調子を落とした荒川は2002年のソルトレイクシティ大会では代表から漏れ、一時は引退まで考えたという。
運命を変えたのが米国で見たアイスショー。
プロ転向したかつての有名選手たちのショーを見て、荒川は自分も将来アイスショーで輝くためにアマチュアの大きな大会のタイトルを手にする、という明確な目標ができたと過去に語っている。
2004年の世界選手権で初優勝を果たし、2006年トリノオリンピックでは見事、アジア人として初のそして史上最年長での金メダルを手にした。
話を少し前に戻そう。
長野オリンピック開催当時、仙台市ではちょっとしたスケートブームが起きていた。というのも荒川を始め、当時の日本代表選手の過半数が、東北高等学校在学中の選手だったからである。
4歳でスケートを始めた羽生は、全日本ジュニア選手権で二連覇を達成すると荒川と同じ東北高等学校に進学。高校入学と同時にシニアデビューすると、四大陸選手権では初出場で銀メダル獲得。しかしその直後に東日本大震災に見舞われることになる。
一時は「スケートなんてやっている場合ではない」という思いに駆られた羽生だったが、周囲からの応援によって自分が如何に支えられて生きてきたかに気付き、その後は復興支援のアイスショーに多数出演しつつ、自身の競技のための練習も再開した。
2012年、羽生は活動拠点をカナダへ移動。ここから全日本選手権二連覇を達成し、ソチオリンピック日本代表に選出されると、男子としてはアジア人初の金メダリストとなる。
その後は読者のみなさんの記憶にも新しく、説明する必要の無い成績を収めている。
しかし内実、出場した大会では好成績を残すことが多い一方、相次ぐ病気や怪我で欠場を余儀なくされ、2018年の平昌オリンピックには痛み止め無しでは滑れないほど満身創痍での参加となった。
それでも蓋を開けてみれば66年ぶりとなるオリンピック連覇を達成。
その後羽生は自身で樹立した世界記録を更新し続け、輝きは今も増すばかりだ。
Photo by KYODO NEWS
東京大学文学部卒業、早稲田大学スポーツ科学学術院修士課程修了(優秀論文賞受賞)、フランスレンヌ政治学院欧州政治コース修了。学生の頃よりフリーのライターとして活動開始。ニュース記事やコラム、インタビュー記事の編集・執筆から海外での学術書執筆まで幅広く対応。国立のスポーツ機関で10年ほど国内トップアスリートの支援や草の根レベルのスポーツ支援に従事。現在は愛してやまないスポーツの新メディア立ち上げに関わることができ幸せです。宮城のスポーツシーンが盛り上がるよう、東京から記事を届けます。