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楽天 青山浩二の引退。義理と献身と感謝。現役時代、青山を導いた二人の監督の言葉とは

 「引退することになりました。今までありがとうございました」

 楽天の青山浩二から連絡をもらったのは、その事実がメディアで報じられる前日、11月20日の夜だった。

 11月上旬。シーズン終了間際に、球団から来季の構想に入っていない――つまり戦力外通告を受けた当初は、現役続行の意思を表していた。それだけに、わずか20日足らずの決断に釈然としなかったのが本音だ。

 率直な想いを伝える。すると青山は、穏やかな声で諭すように短く述べた。

「そう言ってもらえるとありがたいですね。でも、踏ん切りはつきましたから」

 23日の引退会見でもそのようなコメントを残していたというのだから、多少の無念さは残るとはいえ、言葉に偽りはないのだろう。

 青山とはここ数年、インタビューなどの取材を重ねる過程で、ありがたいことに親しくさせてもらっている。付き合いが長くないにもかかわらず、一介の記者にも重大な決断を事前に連絡してくれたということは、たくさんの関係者に直接報告したことになる。

 義理と献身と感謝。

 まさに、青山の現役生活そのものである。

 今年で37歳。八戸大学での4年間もカウントすると19年。青山は人生の半分以上の歳月を東北で過ごしてきたことになる。

 楽天に入団したのは、球団創設2年目の2006年。チームで2番目に当たる3巡目指名と、その右腕への評価は高かった。そんな青山も、プロ野球選手として本当の意味での自我に目覚めるまで、いささか時間を要した。

 入団1年目から一軍マウンドを数多く経験した。ピッチャーの花形である先発、ゲームを安定させ、時に流れを変える役割でもある中継ぎと、あらゆる立場で投げた。しかし、青山自身は「1年でも長くできればいいかな」程度の意欲しかなかったと振り返っている。

 そのマインドを180度変えてくれたのが、2011年に監督となった星野仙一だった。

 闘志を全面に打ち出した指揮で、中日と阪神をリーグ優勝へ導いた名将。「闘将」と野球ファンから支持される星野から、抑えピッチャーに任命されたのである。

 抑えとは特殊なポジションだ。

 主に最終回を任され、セーブの対象となる3点差以内のリードを守り切らなければならない。抑えて当然。賞賛より非難。責任が重い仕事だけに、周囲の目は常に厳しい。

 150キロを超えるストレートに切れ味鋭いスライダー持つ青山には、抑えの適性があった。しかし星野は、そういった能力ではなく闘争心に不満だったというのだ。

 それは、闘将らしい檄だった。

「もっと稼ぎたくないんかい!」

 控えめで、プロとしての欲求に欠けていた男が、貪欲になった瞬間だった。

 12年は抑えピッチャーとして22セーブ。翌13年には中継ぎも兼務し11セーブを記録した。登板数も2年連続で60試合以上とフル回転し、球団初のパ・リーグ優勝、日本一に貢献した。そしてこの年のオフ、青山は初めて「1億円プレーヤー」となった。

 14年から再び中継ぎへと回り、リードしている展開でマウンドに立つ、いわゆる「勝ちゲーム」での登板を重ねていった。抑え同様、中継ぎも打たれたほうがメディアに取り上げらるポジションだ。故に、青山に対して風当たりの強い時期もあった。

 それが、16年と17年である。

 とりわけ17年は、自身では復調の兆しが見えながらも二軍暮らしが続いた。

「あれほど虚しい時間はありませんでした」

 パフォーマンスの減退を感じていたわけではない。一軍の勝ちゲームで抑える自信もある。その舞台で戦えない不甲斐なさ、ジレンマと戦っていたのである。

 悶々としていた青山が吹っ切れた理由。それは、思考の転換だった。

 勝ちゲームではなく、一軍でとにかく投げる――この姿勢まで導いてくれたのが、当時、二軍監督を務めていた平石洋介である。

「『どこでも投げます』って言ってこい!」

 実はこの年、青山は戦力外の瀬戸際にいた。夏場に一軍復帰後は、文字通りどんなゲーム展開であっても右腕を振り、結果も残した。そのことで翌年の契約を勝ち取ったわけだが、同時にこんな想いも去来したのだと、そのときの青山は話してくれていた。

「『もう、現役はそんなに長くないんだな』って思いましたね。そこからは『最後の年になるのかもしれない』と思いながら投げている部分はあるのかなって」

 それまでの青山は、星野の檄によって貪欲さに目覚めたように、チームメートであっても「ライバル」と見なし、後輩たちにも必要以上のアドバイスを送ってこなかった。そこには「おせっかいだと思われたくない」という気持ちもあったというが、19年になるとコンディショニングから技術的な要素まで、ベテランは自らの経験と叡智を惜しげもなく伝えるようになったのだという。

 青山の決意が、今も耳に残る。

「自分が経験したことを後輩に伝えることによって、居場所が失われるかもしれない。でも、これからはそういう部分も開放して、自分をさらけ出していきたいなって」

 そう楽天の屋台骨を支えると決め、マウンドに立った青山は今年、15年の現役生活にけじめをつけた。

 楽天の創成期からブルペンの中心で働き続けた37歳のベテランは、まるで、投手としての役目は終わったのだと、自分に言い聞かせるようにユニフォームを脱いだ。

 通算625登板は球団歴代1位の記録だ。そして、プロ野球80年以上の歴史のなかでも、わずか32人しか到達していない偉業である。

 貪欲となり、どこでも投げ、後進の道しるべとなったことを示す勲章。

 青山らしい、深く、力強い足跡である。

Photo by KYODO NEWS

田口元義
田口元義

1977年、福島県生まれ。2003年からフリーライターとなり、雑誌やウェブなどに寄稿。著書に『負けてみろ。 聖光学院と斎藤智也の高校野球』(秀和システム)がある